和歌と俳句

齋藤茂吉

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低くなりて 空に動くに 心親しむ 奉天に来て 雨雲見たり

奉天の 瀋陽館に わが著きて 日本女の こゑを親しむ

ここにして 大学同級の 友ふたり 大成潔、森川千丈

奉天は 歴史ゆたかなる 都市にして 吾を導く 八木沼丈夫

「十方」といふ扁額を見し 十分後 沐浴室を 見つつ過ぎたり

清真寺 黄寺太清宮を おとづれて やうやく疲る 日は暮れしかば

南門を くづりし時に いそがしく 大山総司令官のこと語る

奉天の 大包囲戦の 荘厳を 現のいまに よみがへらしむ

太陽の 紅き光は くろずみて 奉天のはてに 入りゆかむとす

奉天の 吉順糸房の 屋上に 一望として たたへざらめや

明湖春飯店にての わが手帳 酔蟹、紹興酒等のほかに何も無し

旅とほく 来つつ見たりき 殿堂の 青丹は古りて ものは移ろふ

帝王の いきほひにして 年ふりぬ 崇政殿に 「正大光明」の扁

奉天の 春日通に 米商あり 「胚芽半搗米」といふ貼出あり

はるかなる 旅とおもふに ふた夜さへ 君とあひ見て いひ食ひにける

あわただしき 旅のゆくへの ひと時を 君が家居に こころ休らふ