山の家に 次男ともなひ 吾は来ぬ 干饂飩をも 少しく持ちて
五年ぶり ここに来りて ほうほうと 騰るさ霧を 呑まむとぞする
かなかなと 朝な夕なに 鳴く蝉を いまだも吾は 聞き飽かなくに
鹽澤の観音堂 今宿の薬師堂 汗おさまりて わが眠りしところ
今ごろになれば 大石田を おもひいづ ゆふぐれ蟆子の 飛ぶ大石田
最上川 難所の歌を つくりかけ 未だ能はぬに 夏ふけむとす
東京の空よもすがら赤くなり見えたりといふ頃も忘れな
かくしつつ 強羅の山の 月讀を 二たび見むと わがおもひきや
しかすがに われ命ありて のぼり来し 峡の大門に 雲はこごりぬ
鳴雷は 谷のしたより ひびき来て 玻璃窓ふるはす わがゐたるとき
あかあかと 明星が嶽 もゆるとき 平和のひびき ここに聞こゆる
棚のすみ ブリキの箱に かびふきて 耳掻なども 残りゐしはや
ここに住みし 洋人いくたり 移りぬと おもひめぐらす 今日のひととき
むらぎもの われの心の 清くして 一時あらばや 山のこの家
ねむの花 たかだかと咲き にほひけり 左千夫翁つねに 愛しめる花
東京の空赤くなり見えしとふ 話をききて 心かなしむ
たたかひの ことを思へば 心いたむ この山も五ヶ年の 空白にして
白雲は 中空にして ひびくまで 早雲山を おろして来たる
栗のいが まだ小さきが 見えて居り それに接して 直ぐ葛の花
月かげの 畳のうへに 射しくるを 五年まへの ごとくに見たり
道のべの うばらの花が 香にたちて 人のをとめと むかふがごとし
ややにして 低く夕日の さし来る なだりの道を 衰へてあゆむ
谷ぞこに ひびきを揚ぐる 山がはを 十年のまへに われは渡りき
限りなく 湧きいづる水は 創世の世の外輪山を みなもととする