北原白秋

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春早やも 蛙鳴きそめ 幾夜さか 真闇つづきて 月ほそく出ぬ

へうへらと 蟇は土より 音哭きして 春なりけりや 月夜はつかに

ほそき金 何ぞ秘むやと 夜を覚めて 妻に訊きゐつ をさな蟇の音

夜哭きする 食用蛙 風にゐて 春寒なれや 咽喉つづかず

夜は暗し 皿なる鰯 冰れるが 片照る青き 脊すぢそろへぬ

蘭の香に 寒波押し来る 夜の闇や 春酣と いふに間はあり

春蘭の 根に置く卵 殻なるを 鼠は出でて 触れゐるらしき

春蘭の 鉢跳びおりる 夜の鼠 そのひと跳びの 尾は冴えかへる

鼠出て もこりと居るは 畳目の けばをかひろふ 夜寒灯あかり

承塵に 水月のかげ のぼるとき 鼠は居りき 面を出だして

電燈の コード咬み切る ふてぶてし 鼠彼奴は 感ぜぬらしき

温ときは 鼠らしきが 小走りに 体あたりして 早や消えしなり

冷えまさる 闇に目を瞑ぢ 我が居れば おのれ鼠の 親なるごとし

闇にゐる 鼠思へば 立つ鬚に 眼のするどかる 啼く音引くなり

春惜しむ 我が方丈の 闇にして さうさうと群るる 鼠暫あり

薄眼にぞ 走る鼠の 影追ひて 何すとならし 春も暮るるに

梁や 春来てかじる 野鼠の おもしろと聴けば なほと居るなり

歳時記を かじる鼠は げんげ田の 畔をかも来らす その日がへりを

花さぐる 鼠和上は 身ぐるみに 濡れてかまさめ 春雨な降り

春朧ろ かがむ鼠の をさなきは 両肢持ちそへ 物をふふみ食む

朧月の 匂ふ面を 行く刻み 定刻九時四十分の 時報今点つ

牡丹しろく 香を吐く夜々は 陰のみを 鼠跳梁し早や 在らずあはれ

花塵をさまりて 幽けく暑く なるものか 梁を走る 鼠すら無し

和歌と俳句