和歌と俳句

正岡子規

75 76 77 78 79 80 81 82 83 84

雨戸あけて 手洗ひ居れば 庭の闇に 紛々と匂ふ 沈丁の花

夕顔の 巻よむ春の夜は更けて 油乏しく 灯消えんとす

花くはし 櫻の如き 彼君は この春の夜を わびつゝあらん

くれなゐの 緞子の衾 重ね著て 君と語りし 春昔なり

春の夜の 衾しかんと 梅の鉢も 蕪村の集も 皆片よせぬ

春の夜の 閨にわが入れば かむろ来て ラムプ吹き消し 行燈つけたり

くれなゐの とばりをもるゝ ともし火の 光かすかに 更くる春の夜

久方の 天つ少女が 舞ひ遊ぶ 春の月夜に 樂の音聞ゆ

春の夜の うたゝね更けて 手枕に 落つれど知らぬ 玉のかんざし

きぬぎぬの やり戸あくれば 春の夜の 白みにあくる つま梨の花

よき人の 昔住みにし 家の跡に 菜花さく 鎌倉の里

鎌倉の 右の大臣の おくつきに 草花咲きて 人も詣でず

鎌倉の 松葉が谷の 道の邊に 法を説きたる 日蓮大菩薩

鎌倉の ありし都の 跡古りて 空しく照す 畑の上の月

鎌倉の 昔の人は 歸らねど 野中の佛 今にのこれり

心なき 鎌倉山の 草も木も 土の人屋を 見るに泣くべし

藤綱が 銭の寶を 拾はしゝ 滑の川は 溝となりけり

鎌倉の 八幡の宮に 今もある 銀杏の老木 人かくるべし

鎌倉に わが来て見れば 宮も寺も 賤の藁屋も 咲きにけり

ものゝふが 太刀沈めにし 鎌倉の 稲村が崎に 鴎飛ぶなり