TopNovel待ちぼうけ*プリンセス・扉>待ちぼうけ*プリンセス・5



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 あ、駄目だ。
  じっと見つめていたエクセルの画面がぼーっとかすんで、思わず首を横に振っていた。
  そしてもう一度姿勢を真っ直ぐにして仕事に戻ろうとしたんだけどやっぱり駄目、押さえきれない睡魔がふーっと目の縁に留まってるみたいだ。
  昨夜は部屋に戻ってからも、いろんなことを考え過ぎちゃってなかなか寝付けなかった。
  それもこれも、全部があの今関くんのせいだよ。彼がいきなり目の前に現れて信じられないことを言い出すから、私は混乱しまくり。もうこれ以上は振り回さないで欲しいわ。
  そんなことを考えていたら、すぐ側で足音が止まるのが聞こえた。
「遥夏ちゃん、大丈夫?」
  ここまで挙動不審になっていたら、誰だって気づくよね。そして、私のデスクの脇を通り過ぎるときにさりげなく声を掛けてくれたのが武内さん。
「さっきから、気になってたんだ。もしかして、どこか具合でも悪い?」
  うわーっ、また心配かけちゃったんだ。本当に申し訳ない限り。
  もともと武内さんは周囲の人たちに行き届いた気配りができる人なんだけど、この頃は……とくに個人的に優しい気がするのは私の思い過ごしじゃないよね。
「あ、いえ……大丈夫ですっ!」
  もうっ、駄目駄目っ! 忙しい武内さんに気遣ってもらうなんて、とんでもない。できる限り元気よく答えたつもりだったのに、ちょっと目を細めた彼は私の耳元に唇を寄せて内緒話みたいに訊ねてくる。
「もしかして、昨日は夜更かしをしたんでしょう?」
  いきなり図星なんだもの、これはさすがに驚く。自分でもわかるくらい肩が跳ね上がってしまったから、もう少しで武内さんの顎に激突するところだったと思う。
「ふふ、本当に可愛いな。遥夏ちゃんは……」
  いえっ、そう言う武内さんは本当に完璧なまでに素敵です……!
  心の中でならいくらでも大声で叫べるのに、こうして本人を目の前にするともう駄目。まったく制御のきかなくなった心臓がバクバクして、思い浮かぶ言葉の四分の一も伝えることができない。
「ところで、遥夏ちゃん。今夜は何か予定が入っている?」
  さらに声を潜めて、秘密の会話。武内さんの吐息が耳の内壁をくすぐっていく。
「いえ、別に今のところは、な、何も……!」
  もっと自然に答えたいのに、思い切り噛んじゃうし。でもそんな私に対して、彼は優しく微笑んでくれる。
「じゃあ一緒に食事に行かない? いい店を見つけたんだ」
  うわあ……、いきなりデートのお誘いだ!
  思わず周囲を見渡してしまうけど、みんな普通な感じで仕事を続けている。今の会話、絶対に聞こえてると思うのに、とっても不思議。
「予約しちゃっていいよね?」
  武内さんは、もう決まったことのようにそう言うと私の肩に手を乗せた。
「ほら、そろそろ課長が外回りから戻ってくるよ。気をつけて」
  最後にまた優しい気遣いを見せてくれたりして、もう胸がいっぱい。先ほどまでとはまた別のぼんやりでしばらく仕事が手に着かなくなってしまう。
  一方の武内さんはと言えば、何ごともなかったかのようにすーっと元通りの仕事に戻っていくんだけどね。これがデキル人間とそうでない人との差かなあ。隣のデスクの同僚とちらっと会話を交わしている横顔まで素敵。
  はーっ、久美がちょうど席を外していて良かった。こんなやりとりを聞かれたら、あとからいっぱい突っ込まれちゃいそうだもの。
  そう思いつつ、今度こそと気合いを入れてパソコン画面と向かい合う。この仕事、今日中に上げなくちゃ。せっかくのお誘いを残業でフイにするなんてとんでもない、ぱぱぱっとまとめて課長に提出しよう。

 そして、仕事上がり。
  ぽつぽつと帰り支度を始める人が目に付き始める六時過ぎ、私もパソコンの電源を落とすとデスクの上を手早く片付けてた。
  ついさっき、武内さんは広報部に用事があると席を外したから、まだそれほど急ぐことはないと思うんだけど。予約してくれたお店も、ここから歩いて五分ちょっとなんだって。
「あっ、良かった! 遥夏、まだいたんだね。……ちょっといい!?」
  そこにバタバタと戻ってくる足音。久美はいつもせわしない感じではあるけど、今はとくに慌てているみたい。まだ課長がデスクに座ってる課長が眼鏡越しに睨んでいるのにもまったく気づいていない。
「えっ、……何っ。待ってってば―― 」
  立ち話で終わると思ったのに、どういうわけか給湯コーナーまで引っ張り込まれてしまう。何なのー、いきなり出てきてこれはないでしょう。本当に久美には困ったものだわ。
「あっ、……あのねっ、あのね……!」
  どうでもいいけど、何でそんなに大汗かいてるの? 息も完全に上がっちゃってるし、すごく変。
  久美はぜーはー言いながらも、一度大きく深呼吸してもう一度こちらへと向き直った。
「遥夏、今週の土曜は空いてるよね? もしも予定が入ってたとしても、それはキャンセルして私に付き合って……!」
「……え?」
  ちょっと待ってよ、何なのそれ。
「ええと、……別に予定はないけど」
  私のスケジュール帳なんて、本当に綺麗なものよ。もちろん、これからお誘いが入るかも知れないけど、まあ今のところは大丈夫。
「うわっ、良かったーっ! ありがとうっ、恩に着る……!!!」
  いきなり両手を掴まれて、ぶんぶんと振り回される。まったく話が見えてない私のことなんて、全然わかってないみたいだ。
「あ、あのっ……久美?」
  どうして、土曜日の予定がフリーって言っただけでこんなに感謝されちゃうの?
「ちょっと、落ち着いて。そして、私にわかるように説明してよ」
  このまま勢いで押し切られちゃいそうになって、さすがに慌てる。話の核心が見えないままで切り上げられたりしたら、またも悶々と過ごさなくちゃならないでしょう。
「―― あ、ああ……。ごめん、ごめんっ!」
  私の呼びかけに、ようやくハッと我に返った久美。だけど私の両手は彼女によって握りしめられたまま、正直言ってかなり異様な光景だと思う。
「えへへ、今ね……総務でばったり須貝さんに会ったんだ!」
  須貝? と、一瞬は頭を捻ったものの、すぐにああーと思い当たる。そうそう、須貝さんって昨日今関くんが呼び出したもうひとりの人だ。私はほとんど話もしてないからあまり記憶にないけど、久美の方はかなり入れ込んでいたもんね。
「それでっ、誘われちゃったの。土曜日、もしも空いてたら一緒に出掛けましょうって……!」
  へええ、それはすごいじゃない。もしかして、第一関門を突破ってこと?
「うわっ、良かったね! 久美」
  うんうん、その話を聞いて私も嬉しいよ。入社以来、あちこちにアンテナを張り巡らせて「イイ男をゲット!」と意気込んでいた久美だったけど、ようやくこれで落ち着くのか。
  そうだよなー、私と武内さんのことがあって以来、かなり目の色が変わっていたもの。悪気はないと思うんだけど、あれこれ聞かれたりしてちょっと辟易してたんだ。でもこれで……少しは落ち着いてくれるかな?
「うんっ、ありがとう! これも全部、遥夏のお陰だよ……!」
  そして私に向けられる満面の笑み。そこで、はたと気づいた。
「で、でも……どうしてそのことと、私の土曜日の予定が関係してくるの?」
  そうだよ、それっておかしいじゃない。
「まさか、心細いから一緒についてきてくれとか言うんじゃないでしょうね? 冗談じゃないわ、それだけは勘弁して」
  まあ、いくら久美でもそこまではと思ったんだけどね。でも、ちょっと不安になったから聞いてみた。
「え、もちろん遥夏も一緒だよ?」
  それなのに、久美の方は「どうして、わざわざそんなことを確認するの?」って態度なの。
「須貝さんが、昨日みたいに四人で出掛けようって。ねえ、いいでしょう。私を助けると思って、もう一度だけ付き合って……!」
  一瞬、頭の中が真っ白になった。きっと、今の私、顔面蒼白になってる。
「……ちょ、ちょっと待ってよ!? 何なのそれ、絶対に困る!」
  私は慌ててそう言うと、久美の手を必死で振り解いた。
「悪いけど、他を当たって! 昨日みたいのはもう嫌、久美だって私の立場がわかっているはずでしょう……!」
  もちろん、久美はすごく悲しそうな顔になった。だけど駄目、いくらそんな表情したって私は流されたりしないから。
「で、でも……もうOKの返事しちゃったし」
  何よそれ、人に断りもなく。いくら久美でも、やっていいことと悪いことがあると思う。
「あっ、あのね―― 」
  きっぱりと駄目出しをしようと思ったんだ。でもその前に、私の言葉は途切れてしまう。
「何だ、こんなところにいたんだ。探したよ、遥夏ちゃん」
  パーティションの隙間からひょいっと顔を覗かせたのは武内さん。これには私も、さすがの久美も黙りこくってしまう。
  ……もしかして。今の話、聞かれてたりした……!?
「さあ、そろそろ行かないと予約の時間に遅れる。早く支度して」
  良かった、何も気づかれていないみたい。別に自分に後ろ暗いことがあるわけじゃないのに、ホッと脱力してしまう。
  でも、一度は私たちに背中を向けた彼は、そこでぴたっと足を止めた。
「あのね、遥夏ちゃん。僕は土曜日に友達との予定があるから、君のことは誘わないよ。だから佐藤さんたちと出掛ければいいじゃない」

 

つづく (100907)

 

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