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 翌日、普段どおりの時間に出勤した私と顔を合わせた武内さんは、少なからず驚いた様子だった。本人は冷静を装っている様子だったけど、口の端が不自然に歪んでいる。
  そりゃそうだろう、あんなことがあったすぐあとだもの。ショックで寝込むくらいのことがなかったら、おかしい。むしろ彼にとって一番嬉しいのは、このまま私が仕事場から消えてしまうことだったかも知れない。
「おはようございます」
「あ、遥夏! おはよ〜!」
  もちろん、何も知らない久美もいつもどおりの笑顔。ううん、いつも以上って言った方がいいかな? なんかすっごく嬉しそう。
「ねえねえっ、遥夏! ちょっと聞いて欲しいんだけど―― 」
すぐにウキウキと話を始めようとする彼女。その弾けそうな声を、小さく首を振って止めた。
「ごめん、ちょっと仕事が溜まっちゃったからすぐに始めないと。その代わり、ランチのときにじっくり聞かせてね」
  たぶん、昨日言っていた新しい合コンの話をしたいんだろう。きっといい感じに進んでいるんだろうな、すごく羨ましい。
  ―― それに引き替え、私の立場って……。
  ここに来たら余計なことは絶対に考えないぞと、心に強く誓っていた。
  今関くんはすごく心配してくれたし、タクシーが私の自宅の前に着いたときにもまだ「やっぱり、警察に……」とか言ってくれてた。
  本当はそうするのが一番いいってわかってた。だけどね、何だかそういう道に逃げるのは安直な気がする。そりゃ、このままあの人たちを野放しにしておくわけには行かないよ。次の被害者が現れたら大変だもの。
  でも今は社内イベントの直前。今までずっとそのために皆で頑張ってきたんだもの、絶対に成功させたいと思う。今回の企画にエントリーされた人たちのためにも。
  無意識のうちにぎゅっと握りしめる携帯。
  もしも何かあったら、すぐに連絡してと今関くんから言われている。最終プレゼンテーションは来週だから、それまでは準備のために内勤がほとんどなんだって。
  もちろん、勤務時間内で忙しい彼の手を煩わせようなんて考えてはいない。でも、こうやってすぐ近くにいてくれるってわかっているだけで、すごく安心。
  ―― 変だよね、私。
  今関くんのことだって、ぜんぶ信用し切れてはいないのに。でも今の私には、彼の存在がとても力になっている。そう、このまま悲劇のヒロインを演じるなんて私には無理。信じていた武内さんにゴミみたいに扱われたことで、ちょっとムキになっているところもあるんだろうな。適当な女だって、切り捨てられたくない。少なくとも、与えられた仕事はきちんとやり終えなくちゃ。
  昨日の続きの作業をしようと、パソコンを立ち上げてファイルを開く。今手がけているのは、武内さんが来週の社内プレゼンで使う資料のひとつ。過去二十年間分の該当データを様々な切り口で解析していく。その中から、一番綺麗に出ている結果を当日紹介するみたいだ。
  だいたいの手順については事前に打ち合わせしているけど、その他にも色々試してみたりして。ちょっと視点を変えるだけで、結果ががらりと変わるのがとても面白い。
  もちろんこの作業も、大きなプロジェクトを仕上げる上ではほんの小さなワンピースでしかないのはわかってる。それでも所属部署の威信を賭けた作業に参加できてるって、すごく励みになるんだ。
「えっと……」
  あれ、ここはどうするんだったかな。ちょっとした疑問が生まれて、キーを叩いていた指が止まる。そして、無意識のうちに武内さんの方を振り向いてしまって……それで、ハッとして目を逸らしていた。
  ―― 彼が、私を見ている。
  それまで、自分が意識的に武内さんの存在を避けていたことにようやく気づく。全然平気だって、普通にしていられるって思ってたけど、実際はそんなに簡単にはいかなかったみたい。
  すごい怖い目、睨み付けられているって訳ではないけど……何というか、凍り付いた湖みたいに冷たくて。その表情から何もくみ取れないのが、少し怖かった。
  ―― でも駄目、これくらいのことでへこたれるんだったら、今日はここに来ない方が良かったんだもの。
  どうにか吹っ切らなくちゃと、心の中で自分に何度も言い聞かせる。変な態度を取っていたら、すぐ側にいる久美にも怪しまれるもの。そんなのは絶対に嫌。
「―― すみません」
  と、そのとき。
  すごくよく通る声が、私たちの間を通り抜けた。その声の主は、武内さん。
「昨日、沢野さんに仕上げてもらった資料が見当たらないんですけど。どこかに紛れていませんか?」
  さらに追い打ちを掛ける言葉に、部署内がざわつく。
  沢野さん、とは私や久美の直属の上司でもある「主任」のことだ。会社の仕組みはよくわからないけど、私の配属されているのは企画開発部の二課。そこで一番偉いのが課長で、その下もいくつかのチームに分かれていて、そこのひとつひとつをまとめるのが「主任」なんだ。その役職は必ずしも年齢や経験が直接反映されるわけじゃないみたいで、そこはやはり実力の世界みたい。
「え? 昨日直接渡したときに、武内さんはきちんとご自分のデスクの引き出しに入れていましたよ」
  すぐにそう反応したのは沢野さん。その表情は、とても動揺している。
「確か、すぐに鍵を掛けてましたよね? あれはとくに重要な書類ですから」
  そう、それくらいのことは私にだってすぐにわかる。主任が直接手がけるのは、私たちのような下っ端では歯が立たないような面倒で難しいデータ処理や書類作成ばかり。そして、それらは例外なく重要な内容ばかりなのだ。
「はい、僕もそう記憶しています。でも入れたはずの場所に入ってないんです」
  すぐさま、皆が自分のデスクを改め始めた。もちろん、私もそのひとりに加わる。昨日はここを武内さんと一緒に出て、そのあともずっと行動を共にしていた。武内さんのデスクなんて触った覚えもないし、隣の席でもないのに、不用意にもちものが紛れることもあり得ない。
「自分のところにはないです」
「こちらも同じです」
  やがて、部署内のあちらこちらから、同様の声が上がっていく。
  私もデスクの上や引き出しの中を一通り調べたけど、それっぽい資料は見当たらなかった。隣の席の久美も声にこそ出さないまでも「あるわけないじゃないねえ」という表情で首をすくめてみせる。
「……そうですか」
  武内さんが心痛な面持ちで首を捻ると、その背後に座っていた課長までが顔色を変えていた。それくらい重要な資料なんだって、こちらまでが背筋が寒くなってくる。
  でも、恐怖はそこでは終わらなかった。
「―― ねえ、遥夏ちゃん?」
  そこでいきなり自分の名前を呼ばれる。
「は、はい!」
  無表情のままで見つめられて、心臓が胸から飛び出しそうになった。
  別にこっちに後ろめたいことがあるわけじゃないのに、これじゃあ周りからは挙動不審に感じられても仕方がないって感じ。
「君、僕のデスクの鍵がどこに入っているか知ってたよね?」
  問いかけられた言葉の意味がわからずに、しばらくは呆然としてしまった。
「え、ええ……以前に教えていただきましたから」
  あれはいつのことだっただろう。
  武内さんが出先から連絡してきて、ちょうどその電話を私が取ったんだ。そして、すぐに確認したい事項があるからと言われるがままに引き出しを開けて資料を取り出し、そこに書かれていた数値を読み上げた。
「でも、私が武内さんのデスクに触ったのはあのときだけですけど」
  自分が疑われているんだ、ということにしばらくしてから気づいた。部署内の皆の目が、一斉に私に向いている。戸惑うことなんてないのに、それでも声が震えてしまう。
「そう、……その言葉を僕も信じたいんだけどね」
  武内さんは吐き捨てるようにそう言うと、まっすぐにこちらに歩いてきた。そして、私にデスクから離れるようにと顎で合図する。そんな冷たいやり方をしなくてもいいじゃないと思うくらい、強引なやり方だった。
  そのあと、さらに信じられないことが起こった。
  武内さんは私に確認することもないままに、デスクの鍵付き引き出しを開ける。デスクの鍵がどこにしまわれているかも、彼は知っていて迷いもなかった。
  そして、手に掛けたのは一番下の引き出し。
「え、でもそこは……」
  しばらく手も着けてなかった場所。だから、今回も改めて探したりしなかった。作業が終わった書類は定期的にシュレッダーにかけて破棄するように言われていたから、いつまでもデスクにいろいろ残していることはない。
「ふうん、……ここを開けられちゃまずかったってことか」
  次の瞬間、その場所から取り出されたものを見た私は呆然とした。
「え……どうして」
  そんなはずない、私は知らない。でもどうして、武内さんの引き出しから消えた書類がそこにあるの? 
  でも、何が何だかわからないままに硬直する私を見下ろす彼の眼差しは絶望的に冷たかった。
「どうしたもこうしたもないでしょう? 君以外に君のデスクにこれを隠すことができる人間がいるかな。そうか、そういうことだったのか。君に関する悪い噂は本当だったんだな」
  いったい何を言っているんだろう、この人は。どこをどうしたらそんな話になるのかもわからずにうろたえるしかない私に対し、彼は何故か自虐的に笑う。
「君が、営業の今関とただならぬ関係であるという情報は、すでに掴んでいるんだ。でも、だからといってこんな裏切りはないと思うけどね」

 

つづく (110202)

 

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