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 あの日、久美と一緒に訪れたラウンジで、初めて今関くんの姿を見たとき。
  私は心の中で少しだけ「怖い」と感じていた。その瞬間には、胸の奥から湧き上がってきたその感情が何を意味しているのかよくわからないままだったけど、こうしてしばらく経ってから改めて思い起こせば、とても簡単なことだったんだと気づく。
  ―― そうか、この人はこんなにも大きな存在だったんだ。
  あ、この場合はもちろん見た目がどうとかそういうことじゃない。実際の彼もかなりの長身で言葉どおりに「大きい」人ではあるんだけどね。私が言いたいのはまったく別のことだ。
  見る者を聞く者を、すべて取り込んでしまうような存在。それは確かに素晴らしいことではあるんだけど、同時にある種の「恐怖」を対する者たちに感じさせる。
「……あ……」
  発表はまだ続いている。正面のスクリーンに映し出された映像を指し示しながら、今関くんの説明が続いていた。どこまでも続く、緑の森。そこに魅入っていると、いつの間にか実際にその中に迷い込んでいくような気がする。
  照明を落とした会場内、一瞬だけ、自分の身体がふわっと浮き上がった気がした。
  ―― そして。
  私の不思議な浮遊体験は、そこで途切れる。視界をすっと横切った黒い影、それに続いてもうひとつが追いかけていく。そのまま見逃しても良かったんだけど、それがどうしてもできなくて。にわかに湧き上がる心のざわめきに押されるように、私も後部のドアからそっと外に出た。

「……ええと……」
  当然のことではあるけど、廊下には人影はない。壁越しに今関くんが発表を続けている声が漏れているだけの、静かすぎる空間だ。だけど、必死で耳を澄ませていれば、ふたつの足音が遠ざかっていくのがわかる。私も見えない力に引っ張られるように、そちらの方向へと進んでいった。
「―― 待ちなさいよ! ひとりだけ逃げるなんて許されることじゃないわ!?」
  非常階段へ続くドアを開けたとき、いきなり耳に飛び込んできた叫び声。最初は自分に向かって投げかけられたのかと思ったけど、そうじゃなかったみたい。だって、目の前は白い壁。私を捉えている視線はどこにもない。
  ―― でも、この声には聞き覚えが。これって確か……。
「見損なったわ、和之! あなたがそこまで腐ってる人間とは思わなかった!」
  ええと、これって……宮田さん、だよね。そして話しかけている相手は「和之」って、つまり……武内さんなの!?
  このふたり、確かに以前は付き合っていたはず。でも、まさかまだ繋がっていたとか? それにしては、なにやらひどく険悪なムードだ。彼らは私よりもずっと下のスペースにいるらしく、その姿は確認できない。
「ふうん、君に人のことが言えた義理かな。まったく信じられない裏切り行為だ、こっちこそ見損なったよ」
  コツコツ、と靴音が響く。これは、たぶん武内さんのもの。
  この場所は上から下まで吹き抜け状態だから、少しの物音も驚くほど大きく聞こえてしまう。ふたりが今、いったいここからどのくらいの場所にいるのか、それを正しく判断するのは難しそう。
「さすがに『秘書課の花』と言われただけのことはあるね。いや、むしろ君の場合は蝶々かな。花から花へ飛び移るのがとにかく得意みたいだ」
「わっ、わかったようなことを言わないで!」
「とにかく、僕はもう降りるよ。これ以上、付き合っていられない。こんな会社にも、その中でコマネズミのように働いている馬鹿な奴らともね」
  遠ざかっていく靴音、それに続くヒールの奏でる細い音。
「そんなことが許されると思ってるの!? あなたにはもう逃げ場なんてないんだから!」
「……それはどうかな。悪いけど、僕は『ここ』がかなり冴えているんでね」
  ふたつの足音が、そこで止まる。
「君がこれからどんな行動に出ようとしているかはすでに承知の上だ。おおかた、あの男に乗せられたんだろう。でも困るな、勝手にそんなことをされちゃ。だからこっちも、相応のお返しをさせてもらうことにした。……ま、楽しみに待てばいい。あの画像、僕が本当に消去したと思ってた? 実はなかなかの傑作だったから、捨てるに忍びなくてね。先ほどそれを、しかるべき場所にアップさせてもらった。さあ、いったいどれくらい馬鹿な男どもが釣り上げられるかな? 君のメールボックスは、あっという間にパンクすることになるだろうね」
  そして、しばし訪れる沈黙。それは永遠とも思えるほど長く感じられた。
「―― いいわよ、どんなことが起ころうと、私は負けないから。もう決めたの、二度とあなたの指図なんて受けないって。この先は最後まで戦うわ、失うものなんてもうなにもないんだから……!」
  刹那、がつっと何かが大きくぶつかる音がする。
  それに弾かれるように、私はようやく階段を下り始めた。そして、何階分か下ったところで、ふたつの人影に遭遇する。目に映ったのは、私が想像していたのとはまったく逆の光景だった。
「……ごめんなさい、救急車を呼んでもらえるかしら? 私、部屋に携帯を忘れて来ちゃった」
  振り向いた宮田さんの顔は、ぞっとするくらい白かった。 

「遥夏っ! 大丈夫……っ!?」
  あたりはすでにとっぷりと日が暮れている。
  本社ビルの前でタクシーを降りると、すぐさま久美が駆け寄ってきた。
「おっどろいたよ〜、気がついたらいなくなってるし、そのうちに救急車やパトカーが来たって聞いて。私、遥夏に何かあったんじゃないかって、すごく心配しちゃった。でも、違ったんだね! 本当に良かった……!」
  私に抱きついた久美は、そのまま泣き崩れてしまう。とても感動的な再会のシーンではあるけれど、ここまで相手に騒がれてしまうと、急に冷静になってしまうのが悲しい。
「うん、平気。私は大丈夫だよ……」
  あの現場を見たときには、さすがにぞっとした。
  階段の下に仰向けに倒れた武内さん、それを呆然と見つめている宮田さん。こんなシーン、ドラマの中でしか遭遇したことがなかった。だから、携帯のボタンもなかなか上手く押せなくて焦った。
  でも、想像していたほどには事態は深刻でなかったみたい。武内さんは、強く後ろに倒れ込んで脳震とうを起こしただけ。その後の検査でも脳波などに異常は見られず、今のところは安静を保っているということ。大事を取って数日は入院することになるって話だけど。
  そこに至った経緯も彼が自分で階段を踏み外したのであって、そのことは現場検証や宮田さんの証言で明らかになってる。このままいくと事故で処理されることになるはず、傷害事件に発展しなくて本当に良かった。
「お疲れ様、遥夏ちゃん。本当に大変だったね」
  次に声を掛けてくれたのは、須貝さん。きっと、いままでずっと久美に付き添っていてくれたんだろうね。それに他の会場係のみんなにもすごく迷惑を掛けてしまったと思う。私は事件の目撃者として身動きが取れなくなってしまって、その後のことはまったくわからない。
「いえ……いろいろ、ご迷惑をお掛けしました。本当にすみません」
  こうなったら、ひとりひとりに頭を下げて歩かなくては。そんなことですべてがチャラになるはずもないけど、このままではとても自分の気持ちが収まらない。
  騒ぎを聞きつけて集まっていたのか、ビルの前には人だかりができている。見たところ、マスコミ関係者とか物騒な類の人はいないみたいだけど……これではどこに誰がいるのかもわからない。
  そんな風に考えていたら、今ひとりの見知った顔が現れた。
「……二宮課長……」
  まずはひとことお詫びをと口を開きかけた私を制して、彼は厳しくも親愛に満ちたいつもの笑顔を向けてくれる。
「今日は本当に大変だったね。君にもいろいろ思うところはあるだろうが、今日のところはゆっくり休んだ方がいい。後日、会社側から説明を求められることになるかと思うが、そのことについてもなにも心配しなくていいよ。今回のことでは、私にも落ち度がある。君へのフォローもしっかりさせてもらうつもりだ」
  気を遣わせてしまって申し訳ない限りではあったが、今日のところは素直にその申し出に甘えてしまおうと思った。様々なことが連続で起こりすぎて、頭がパンクしそう。ひとつひとつの事柄をゆっくり思い起こそうとしても、すぐに別のことが割り込んできてごちゃごちゃになってしまう。
「ありがとうございます、課長にもいろいろご迷惑をお掛けしました」
  本当にその言葉のとおりだなと思う。
  今回のことは、元はといえば私の軽はずみな気持ちから始まったこと。
  ……そうなんだよな。武内さんに「付き合おう」って言われたときに、もう少し落ち着いて考えるべきだった。あのときに彼の心に裏があるとわかっていれば、ううんそれ以前に、もっと冷静に彼のことを見ることができていたなら、そもそもこんな結果にはならなかったんだよね。
「いや、過ぎたことはもういいんだ。……それよりも、山内くん。君に約束して欲しいことがあるんだ」
「……はい」
「今回のことで、君はとても心を痛めているだろう。きっと周りを責める以上に自分のことを責めているのではないかと思う。だが、すべての責任を自分ひとりでかぶるようなことはするんじゃないよ。ときには気持ちを強く持って、正しいことと向き合うことも必要だ。だから……決して逃げないで欲しい。今、君が置かれている状況からも、そしてこの会社からも」
  私は、驚いて課長の方を向き直った。
  どうして、突然こんなことを言い出すのだろう。私はまだ、自分の気持ちをなにひとつ伝えてはいないのに。
  そりゃ、今回の社内企画がすべて終わったら、自分の中で何らかの結論を出さなくてはならないと思っていた。だけど、その前にこんな風に釘を刺されることになるなんて。
「山内くん、君はひとりではないのだよ。君の周りにはたくさん助けてくれる手があることをもっと信じた方がいい」
「……課長」
「私の目は節穴ではないよ。君がどんな心構えで、どんな気持ちで、この二年間仕事と向き合ってきたのかは、よくわかっているつもりだ。そして今回はまた、新たなる一面を見せてもらえることになって本当に嬉しいよ。確かに我々は企業の中ではひとつの歯車でしかないかも知れない。だが、同じことなら精一杯回る優秀な歯車になれたらいいと私は常に思っている。君も―― 同じ気持ちでいてくれると信じているよ」

 

つづく (110421)

 

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