「遥夏ちゃん、ちょっといいかな?」
翌日。久美が総務部へお使いに行っていて、ひとりでお茶の支度をしてた。そしたら、パーティションの影からひょっこり顔を覗かせたのが武内さん。私が顔を上げると、彼はにっこりと微笑んだ。
「今夜は空いてる? 久しぶりにゆっくり食事にでも行こうよ」
何て素敵な笑顔なんだろうって、その瞬間に考えてた。彼の発した言葉の内容も頭に入らないままで。
「……遥夏ちゃん、聞いてる?」
私があまりぼんやりしていたからだろう、武内さんの念を押すような声がして、そこでようやく我に返る。
「あっ、……はい。大丈夫です」
やだやだ、何しているのよ。せっかくのお誘いだっていうのに、こんな鈍い反応してるなんて最低っ!
「でも、いいんですか? 今、とてもお忙しいのに」
そうだよ、来週の最終プレゼンまではノンストップの強行スケジュールになっているはず。我が企画開発部の威信をかけた大仕事、いくら社内イベントとはいっても気を抜くことなんて出来ない。
「困ったなあ、遥夏ちゃんまでそんな風にプレッシャーかけるの? 僕のことを心配してくれるなら、今夜は是非、息抜きに付き合って欲しいんだけどな」
優しい問いかけにじんときちゃう。昨晩にあんなことがあったからだろうな、全然気にしてないつもりなんだけど、やっぱり心のどこかで投げやりな気分になってしまってるみたい。
「わかりました、今夜を楽しみにしてます」
早いところ、気持ちを切り替えよう。いつまでも嫌な気分を引きずっているのは良くない。待ちに待ってた、武内さんからのお誘い。嬉しいに決まってるじゃない。
「じゃあ、またあとで」
忙しそうに次の仕事に向かう背中を眩しく見送って、私はふっと溜息を落とす。
不思議だよね、どうでもいいと思っていた相手なのに裏切られると落ち込んでしまうなんて。その上、とうとうフォローの電話とかも来なかったし。……あ、別に待ってたわけじゃないんだよ。でもさ、今までの彼だったら、それくらいしてきて当然かと思ったし。
私、もしかすると心のどこかで期待してたのかな。そんな風に浮ついてるから、今回のことは神様が「駄目だよ!」ってお仕置きしてくれたんだ。うん、きっとそう。
そこへ、入れ替わりで久美が戻ってくる。
「今のって、武内さんでしょう。何を話してたの?」
おなかの中の苛立ちを昨夜のうちに全部吐きだしてしまったからなんだろう、彼女はもうすっかり元通りになってる。後ろを決して振り返らない性格、本当に羨ましい。私も久美みたいになれたらいいんだけどな。
今夜食事に誘われたんだと伝えると、彼女は興味深そうにニッと笑う。
「それって、ナイスなタイミングだね〜! やっぱ、武内さんみたいなタイプで決まりだよ。何だかんだ言っても、年上男性の包容力が一番だわ」
一応は慰めてくれているのかな。昨日の私って、それほどにショックを受けているように見えてたのだろうか。
「いいな〜、遥夏は。私も頑張って次に行くわ。そうそう、経理の友達が今週末にでも合コンしようって。今度は理系男子って言うのもいいかも」
語尾にハートマークが付いているみたいな話し方に、私もつられて笑顔になってた。
よく考えたら、大切なことをいくつか忘れていた。
社内企画が無事終わったあと落ち着いたら打ち明けようと思っていて、ずっと保留になっていたこと。……そうか、今夜武内さんの食事をすることになれば、その話題を外すことは出来ないんだ。
いつも通りの軽快なおしゃべりに相づちしつつも、そのことが気になって気になって仕方ない。会話の流れで武内さんのお友達の名前がちらっと出てくるだけで、心臓が飛び上がりそうになる。そのたびに彼の瞳の奥がキラッと光る気がするのも……うーん、気のせいかなあ。
「僕の思い過ごしかな、今日の遥夏ちゃんは朝から本調子じゃないように見えるけど。……何か心配事? もしも僕に出来ることがあれば、何でも相談に乗るよ」
とうとう、彼の方から話を切り出されてしまった。うーん、さりげなく振る舞っていたつもりなんだけどな。やっぱり演技が下手だったのかも知れない。
「あ、いえ……別に。心配事ってほどのこともないのですけど……」
そうだな、せっかく話しやすいような雰囲気を作ってもらえたのだから、ここは思い切ってしまおうか。でも、どこからどんな風に切りだそう。いざとなると迷うなあ。
「そう? 無理に溜め込むのは良くないと思うけどな」
武内さんはそう言うと、食後のコーヒーに口を付けた。
私の気のせいかな、今夜は食事の進みが普段よりも早いような気がする。彼がどんどんお皿を空にしていくから、私もつられてかなりの早食いになっていたような。
「僕の方も、ちょっと良くない噂を聞いたんだ」
今度はちらりと腕時計に目をやる。何だろう、もしかしたらこのあとに予定でもあるのかな。ちょっと心配になってくる。私が落ち込んでいると思って無理して時間を作ってくれたのだったら、あまりに申し訳なさ過ぎる。
そう思いながら恐る恐る顔を上げると、武内さんは少し険しい表情に変わっていた。
「あの今関って奴、僕の友達にひどいことをしたらしいね。しかも遥夏ちゃんまでがあいつに同調したっていうじゃないか。もちろん、僕はその話を100%信じている訳じゃないけど、やっぱり面白くない気分だよ」
「……え、それは……」
何で? いきなり険悪ムード? でもでも、……それって事実とかなり違う解釈をされている気がするんだけど。
「遥夏ちゃんにとって、僕の友達とアイツと、どっちが大切なのかな? そこを履き違ってもらっては困るよ」
さらに厳しい言葉で責め立てられて、少し泣きたくなった。どうして、急にそんな決めつけたいい方するの? そんな風に思われていたなんて、悲しすぎる。
「わ、私は、今関くんのことなんて、何とも思ってません。あのときだって、彼の肩を持ったつもりなんてありませんし……」
私、そんなに信用できない人間かな。そもそも、今関くんと何度も接触する羽目になったのは、武内さんの為じゃないの。
……って、はっきり言いたいんだけど、やっぱり無理。
「本当にそう? じゃあ、僕の友達が嘘をついているってことになってしまうよ」
さらに畳みかけられて、返す言葉がなくなってしまう。こうなるともう、俯いて唇を噛みしめるしかなかった。一体どんな言葉で説明すればわかってもらえるのか、今の私にはまったくわからない。
「……わ、私は……」
何か言わなくちゃって思うのに、言葉が詰まって出てこない。そしてしばらくの間、ふたりの間にはぎこちない沈黙が続いた。
やがて、口火を切ったのは武内さんの方。
「―― って、遥夏ちゃんが僕を裏切るようなことをするはずないよね。それくらい、ちゃんとわかってるよ」
テーブルに置いていた私の右手がふわっと温かくなる。はっとしてその場所を見ると、武内さんの手がそこに重なっていた。
「……あ……」
「大丈夫、僕はいつでも君のことを信じてる。だから安心して」
見上げると、そこにあったのは元通りの温かい微笑みだった。ああ、いつもの武内さんだ。そう思ったら、胸の奥がじんわりする。
「さあ、そろそろ出ようか?」
彼は手慣れた感じでウエイターを呼び寄せると、カードで支払いを済ませた。そこで、再び時計を見る。
それから私の手を取ると、当然のように指を絡めてきた。
店を一歩出ると、生ぬるい夜風が吹いていた。雨が近いのだろうか、空に星もない。今日初めて身につけたキャミソールワンビの裾が、さらさらと音を立てて揺れた。
「ねえ、ちょっと遠回りをしてもいい?」
武内さんはさらりとそう言って、駅と反対方向に歩き始める。勝手のわからないままの私も、手を引かれてあとに続いた。
「あの夜の遥夏ちゃんに悪気がなかったのはわかったよ。さっきも言ったとおり、僕は全面的に君のことを信じている。だから、……ひとつ頼みがあるんだ」
ゆっくりと話し続ける彼がいつもと少し違うように思えたのは、お店を出たあと一度もこちらを振り返らないから。何となく意識してそうしているような、そんな気がした。
「今、僕に伝えてくれたのと同じことを、彼らの前でもう一度話してくれないかな。それで、ひとことだけ謝って欲しいんだ。そうすればきっと、すべてが上手く行く。僕は自分の大切な人たちが仲違いをするのを見てるのが辛くて仕方ないんだ」
「……え……?」
私が武内さんのお友達に謝る? でも、それはどうして? 確かに失礼な行動を取ってしまったかも知れないけど、彼らだって強引すぎたと思う。あんな風に大勢でやって来られたら、誰だって躊躇するよ。
でも、心に浮かんだそれらの言葉のどれもを口にすることが出来ない。この状況で、ほんのちょっとでも武内さんのお友達に対するマイナスのコメントをしてしまったら、その瞬間に私の立場はものすごく悪くなってしまう。
やがて、彼が足を止めたのは雑居ビルのような建物の前だった。ほとんどの窓が真っ暗になっている中、中程の階だけが灯りがついている。何でこんなところで立ち止まるの? って、不思議な気持ちで見上げていたら、武内さんが説明してくれた。
「ここ、仲間のひとり、広報部の中田の親父さんが所有している建物なんだ。会社からも近くて便利だから、よくみんなで集まってる。今日もほとんどのメンバーが揃っているはずだから、これから行ってみよう」
そのとき、何故か一瞬「怖いな」と思った。理由なんてない、でも背筋に何か冷たいものがさあっと走った気がした。
「……え、でも」
「謝るんなら、早い方がいいよ。僕がついているから、安心して」
武内さんは強引に私の腕を引くと、ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込む。その後、腰に回された腕は「拘束」を意味しているように思えた。
つづく (101216)
<< Back Next >>