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 社内企画、最終プレゼンテーション。
  その為の準備や各部署への手配は、例年営業部署の皆が力を合わせて丸一日がかりで行う。それをひとりで引き受けることになったのだから、一週間近い期間を与えられても、かなり辛いものがあった。しかし、こうなったらやり遂げるしかない。ここで逃げるなんて、絶対に嫌。
  とにかくは、過去の記録を見ながら、頭の中に当日の一部始終をはっきりと焼き付けていく。去年と一昨年に直接関わっているとは言っても、そのときはただ言われるがままに動いただけ。今年の私はいわば「現場責任者」、すべてをしっかり把握しておかなくてはならない。
  ……だけど、小さなスペースに押し込められていると、どうしても気分が沈んでしまう。
  今の私にあてがわれているのは、一番小さな会議室。というか、まるでここは独房みたい。細長いスペースの一番奥に窓があって、両脇は壁。小さなテーブルを挟んで、パイプ椅子が向かい合っている。窓とは反対側の壁、ドアのすぐ側には内線・外線共に使える電話機があって、仕事を進める上ではまったく支障がない。
  気分を切り替えなければと何度思っても、数時間前に目の前で繰り広げられた一部始終が繰り返し繰り返し脳裏に蘇ってくる。まさか、武内さんがあんな行動に出てくるとは思わなかった。そりゃ、このまま「何もなかったことにしよう」で済まされることはあり得ないだろう。私だって、そこまでお人好しにはなれない。
  でも今すぐに行動を起こすには、タイミングが悪すぎる。いくらこちらに非がないことは明らかでも、わざわざこの時期に面倒ごとを引き起こして周囲を巻き込むのは歓迎できないと考えた。
  まるで物のように、それも使い捨ての消耗品のように扱われたことはかなりのショックだった。そりゃ、私のような何の取り柄もないような人間が、武内さんの相手にふさわしいとは考えがたい。とはいえ、このことは、彼からのアプローチで始まったのだから、あまり疑って掛かっても……と無意識のうちに片目をつむっていたのかも知れない。
  自分にも多少の落ち度はあったと思えば、事態解明を少し後にすることは我慢できた。最終プレゼン、武内さんには全力を尽くしてもらいたい。そのために、今までずっと我が部署は一丸となって頑張ってきたんだから。そのみんなの努力を、しっかりとかたちにして欲しいと思う。
  しかし私の願いは、彼には届かなかった。それどころか、最悪のやり方でメッセージを送ってきたと言い切ってもいい。何ごとに置いても用意周到な人だとは思っていた。仕事に対しても、適当なところで切り上げることなんてなくて、常に様々な事態を想定して打開策を検討している。
  そんな武内さんが、とても眩しかった。真似してその通りにできるはずもないけど、ほんの少しでも近づくことができたならと思っていた。……なのに、どうしてこんなことに。
  悔しくて悲しくて、どうしようもない。すべてを投げ出して逃げてしまえたら、どんなに楽になれるだろう。ううん、こんな場所に押し込められた本当の理由は、私にそうするようにとし向けるためじゃないだろうか。
  ……だって、このさきにどんな弁解をしたところで、私の話なんて誰も聞いてくれそうにないし。

  ずるずると暗い場所に気持ちが引きずり込まれそうになり、その次の瞬間にハッと思い直す。そうしているうちに、窓から差し込む光の方向がだいぶ変わってきていた。
  時計のない部屋、携帯で確認すると三時過ぎ。そうか、私は昼休憩を取ることもすっかり忘れていたようだ。
  ―― と。それまで沈黙を保っていたドアの向こうに、ひとつの足音が止まる。
  そして、狭い部屋全体に響き渡るようなノックの音が、二度聞こえた。
「……はい?」
  ドアの外には「使用中」の札が掛かっているはず。そう思いつつも、とりあえず返事をする。するとすぐにドアは開いた。
「やあ」
  部屋に入ってきた人をひと目見るなり、私は慌てて席を立っていた。そしてそのまま、数歩後ずさりする。
「……どうして……」
「そんな態度を取ることはないでしょう、君と僕はまだ恋人同士のはずだよ」
  端正な顔立ちにはまったく歪みがなく、その精巧すぎるさまが今となっては少し怖い。綺麗に後ろに流した髪にも一寸の乱れもなく、そっと触れたら指を切りそうな気がする。
  私が次の言葉を続けることができずにいるうちに、彼はわざと靴底を高く鳴らしながら近づいてきた。
「ふうん、あまり進んでいないようだね。やはり君ひとりでこの仕事をこなすのは荷が重すぎるんじゃないかな。誰か、手助けする人間を増やした方が良さそうだ。……ただし、それを希望する人間がウチの部署に存在するかどうかは疑問だけどね」
  次の瞬間、武内さんはテーブル越しに腕を伸ばし、素早く私の腕を取った。
「すべては君次第だ。その返事いかんでは、僕としても君の濡れ衣を晴らすために苦汁を飲む覚悟があるんだけどね」
「どっ、どういうことですか!?」
  いったい、何を言っているのだろう、この人は。彼の口から発せられる日本語とおぼしき言葉がまったく理解できないのは、私の気持ちが混乱しすぎているからなのか。
「あの男と僕と。今の君にとって、どちらを選ぶことが得策か、改めて考えるまでもないと思うよ。正直、あんなぽっと出の男にすべてを持って行かれるはずもない。僕には入社以来培った功績も人脈がある、そもそも最初から勝負はついていたんだ」
  そこで、武内さんの口端が上向きに歪む。その表情を「微笑み」と認識することは、今の私には到底無理だった。
「君も決してただの馬鹿じゃない、それが証拠に今現在は深く反省しているはずだ。あのくらいわかりやすく自分の置かれた立場を示してあげれば、どんなに愚かなことをしでかそうとしていたか気づくよね?」
  どう考えても理解の域を超えている言葉なのに、彼自身はまったくそのことを気に掛けていることはないらしい。何でここまで歪んだ思考ができるんだろう、それがわからない。
「なっ、何が愚かだって言うんですか! だいたい、全く身に覚えのないことに責任を感じるはずもありません」
  どんな言葉を使って、今の気持ちを言い表したらいいのだろう。それがまったくわからないままに、必死に抵抗していた。
「……ふうん、考えていたよりもしぶといようだな」
  だけど、それも武内さんの目には無駄なあがきにしか映らないようだ。私を見下ろす冷ややかな目の輝きは、先ほどから少しの衰えも見せていない。 
「だけど、君も見ただろう。先ほどの皆の反応で、僕たちのどちらに軍配が上がるか、そんなのは改めて多数決を取るまでもないと思うよ? 君の未来は僕の手の中にある、―― その意味がわかるかな?」
  自信たっぷりに言い切られても、私は首を横に振るほかなかった。
「君は僕の言うことを黙って聞いていればいい。そうすればすべてが元通りになるよ。……そう、あんな小賢しい男が君に似合うはずもない。それとも、何? このままふたりで地の底まで堕ちてみる?」
  今この瞬間にも恐ろしくてたまらないのに、それでも私は武内さんから目を離すことができなかった。鋭い眼差しが私の身体に刺さって痛い。今にも全身から、血が噴き出してきそう。
「―― ま、返事は急がないよ」
  そこで彼は私の腕を握りしめる手のひらに、さらに力を込めた。
「どちらにせよ、来週の大舞台が終わるまでは身動きが取れないからね。答えはそのあと出してくれればいい、でもノーという言葉は受け付けないからそのつもりで。そもそも、僕の人生に『敗北』という言葉は存在しないんだ」
  そして、呆気なく腕が解放される。ずっと束縛されていたその部分はうっすらと赤くなっていた。
「くれぐれも馬鹿な行動を起こさないように。もしもこちらにとって不利益な事態となったら、そのときは容赦しないよ? ふたりそろって地獄に落としてやるからそのつもりで」
  ―― この人は、自分が犯罪紛いな行為に手を染めているということを理解しているのだろうか。
  あっという間にドアの向こうに消えていく背中。そこにかつて私の憧れていた人の面影はまったく存在しなかった。

 その後ものろのろと仕事を進め、定時まであとわずかとなったときに内線が入る。課長からだった。
「―― ああ、そこにいたのか。今日はもう上がっていいよ、戸締まりだけはしっかりとしてくれ」
  その声に、困ったような響きが感じられたのは気のせいか。そもそも、私がこの場に留まっていたことに若干の驚きを感じているようだった。やはり課長も、私がこのまま部署に二度と戻らないことを望んでいるのではないか。そんな気がしてくる。
「はい、わかりました。お先に失礼します」
  自分の発するその声が、不気味なほどに狭い部屋の壁に反響していた。それを直に感じ取ることで、ここにたったひとりでいることを再認識する。営業部はどこの課も人数の多い部署だったから、いつも賑やかだった。しんと静まりかえった場所で過ごすことなんて、入社以来初めてかも知れない。
  貴重品の入ったバッグを片手にロッカールームへ降りていくと、そこで久美と鉢合わせした。
「……あ、久美―― 」
  声を掛けようとして一瞬言葉に詰まる。ふたりのロッカーは隣り合わせ、少なくとも着替えの間は同じ空間ですごす。わざわざ無視をするのもどうかと思った。
「やっ、止めてよ! 私はあんたとは金輪際、関わりを持ちたくないからっ、そんな風に友達面をしないで!」
  でも、私を見つめる久美の目はひどく怯えている。こうしてふたりで同じ空気を吸っていること自体が忌々しいという感じで、いつもの数倍のスピードで着替えを済ませていく。
「見損なったわ、遥夏。あんた、いい気になるのもいい加減にしなさいよ。そりゃ、プリンスに声を掛けられて浮き足立つのは仕方ないと思う。でも、やっていいことと悪いことはあるでしょう? そもそも、あんな男、全然信用できないじゃない。そんなこともわからなくなっていたの!?」
  そして、久美はわざとらしく大きな音を立ててロッカーを閉じた。
「この先は声を掛けられるのも迷惑だから、すれ違っても他人の振りするからね。私まで巻き添えを食うなんて、絶対に嫌。もう二度と、私には関わらないで……!」
  遠ざかっていくヒールの音。そして、戻ってきた静寂に、自分が今度こそ本当にひとりぼっちになってしまったことに気づいた。

 

つづく (110217)

 

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