初夏の風が爽やかに過ぎていく丘陵地。山を崩して造られたというこの場所は、まるで小さな箱庭のようだった。空気が澄んでいるからか、周りの山々がとても間近に感じられる。
「昨日は大変お世話になりました。あなたは、私を会場まで案内してくれた方ですね」
初めて見る風景に心を奪われていると、不意に声を掛けられた。
ああ、この方は地元商工会の代表の方。そう「田中さん」というお名前だ。
「あ、いえっ! こちらこそ、遠いところをお越しいただき、大変お疲れ様でした。昨日は段取りも悪く、ご迷惑をお掛けすることが多く、大変申し訳ございません」
いきなり仕事モードに戻そうとしても、頭が上手く動いてくれない。必死に言葉を繋ぎ合わせるように挨拶を終えると、にこにこと私を見守ってくれている田中さんの笑顔に出会った。
「いいえ、とても興味深く有意義な一日でした。最終候補に残らなかった事案もすべて見せてもらいましたよ。皆、とても素晴らしかった。私どもが長年悩み行き詰まっていたこの街の行く末を、まったく別の場所で自分のことのように考えてくださる方がたくさんいたことを、大変嬉しく思いました」
そんな風に言われてしまうと、ますます恐縮してしまう。
今回の発表については責任者として深く関わってきた私であるから、当日の発表内容についても事前に概要だけは知っていた。紙の上で確かめるぶんには、どれも趣向を凝らした大変素晴らしいものだったと思う。ただ、それが現実のこの場所にきちんと見合っていたのかと言われると、それは難しい。
とても静かな街。この場所までたどり着くまでの風景も、区画整理をされたままで放置されている住宅地が延々と広がっていた。本来ならば、その場所のすべてに家が建ち、今頃はたくさんの人たちで賑わっていたはずだった。
「驚いたでしょう、ここには今、子供と年寄りしかいません。そしてその子供たちも高校を卒業すると家を出て東京やその他の場所へ行ってしまう。中には子供の中学受験に合わせて引っ越していってしまう家もあります。だけど仕方がないんです、ここへいても仕事がありませんから。どうしても通勤通学に適した場所が好まれてしまいます」
少し歩きませんか、と声を掛けられ、進められるままに住宅街へと入っていく。少し歩くと小学校らしき建物があった。そしてその向こうにはもうひとつ学校の校舎が見える。
「この地区の小学校と中学校です。ここが造成されたときに新設されました。一番多いときには一学年で三クラスもありましたが、今ではどちらの学校もすべて一学年が一クラスのみ。しかもその人数は年々減少傾向にあります」
二十人を下回る学年もあるといい、幾度となくとなり地区との統合計画が持ち上がっているという。ただ、遠く離れたそちらの学校まで子供たちを通わせるにはスクールバスを手配する必要があり、そのための経費も地元で負担するのが難しいらしい。
「地元には産業になるようなものもありませんしね、なかなか厳しいものがあります。ここに来る前に駅前を見たでしょう。駅のすぐ側にあった学習塾、あそこは以前は某有名デパートが入っていたんですよ。その当時にはずいぶんと市街地も賑わったのですけどね、撤退してしまった今はまるで火が消えてしまったかのようです。それでもまだ、駅周辺はいい。こちらに来るともっと問題は多いです。そもそも自家用車がないと生活できない環境は、子供や年寄りには辛すぎますよ」
休日の校庭では、野球チームの練習が行われている。だが、その人数も驚くほど少なかった。
「あれではギリギリチームが組めても、試合ができませんね。どうしても他チームとの対抗試合を組む必要が出てきます。しかしそうなればまた、送迎のバスを準備したりと無駄な経費が掛かる。とても毎週のようにはできません」
とにかく、人間の数を増やさなければ、と田中さんは呟いた。だけど、その方法がわからない。いたずらに手をこまねいているその間にも、さらなる人口の流出が続いていく。
「巨大なショッピングモール、そしてレジャー施設。そのひとつひとつはとても魅力的だと思います。でも、実際は上手く行かないんです。実は隣町に大きなアウトレットモールがありましてね、そこも今では開店休業状態になってるんです。バーベキュー施設を造ったりと努力したらしいですが、現実は厳しいです」
田中さんはそこで小さく溜息を落とす。
そうか、紙の上からではわからないことがいろいろあるんだな。
少なくとも現地に降り立てば、多少のことは見えてくるかも知れないけど、なかなかそこまでは行かないのが現実。
小学校のフェンスにもたれながら、私は何もわかっていなかった自分を恥じていた。
すると田中さんはそんな私に驚くべき事実を伝えてくる。
「実は、先週末に今関さんがここを訪ねてきてくれたんです。突然のことであまり時間は割けませんでしたが、熱心にいろいろと調べたり住人たちに話を聞いたりしていたようです。そのときに私は彼に伝えました、住人たちの本当に望んでいる再開発を考えて欲しい、と」
「そう……だったんですか」
そういえば、そんな話を聞いたような気がする。でもそのとき、私は自分のことに精一杯で、彼の言葉に真剣に耳を傾けてはいなかった。
……そうなんだ、この場所に今関くんはすでに来ていたんだ。
カーンという鋭い音と共に白いボールが空に吸い込まれていく。
目の前を吹き抜けていく風、緑に囲まれた静かな街。ここに暮らしたい、ここで生きていきたいと願う人たちがいる。
「……あ、ここにいましたか。田中さん、遥夏さん、お待たせしました」
振り向くとそこには、眩しい陽射しにも負けないほどの綺麗な笑顔があった。
「俺、ふるさとって呼べる場所が欲しかったんです」
田中さんと別れてふたりで歩きながら、今関くんはぽつんと呟いた。
「両親それぞれの実家も普通に住宅街で、夏休みに田舎に遊びに行くという友達がとても羨ましかったんです。トンボを捕まえたり、メダカをすくったり、そういう生活に憧れてたんです」
「……だから、あんな計画を考えたの?」
せっかく切り開いた場所を元通りの森に帰す。まるで開発に逆流するようなやり方が、彼にとってはただの挑戦ではなく確固たる信念を持ってのことだったのだろうか。
私の問いかけに、今関くんはちょっとはにかんだ笑顔になった。
「そうだったんですけどね、ただ田舎にくれば自然が手にはいるっていうのは間違いだったようです。この辺りでは農業用水路が整備されて流れが速く、とても水辺の生き物が住めるような環境ではないらしいですし、稲作には一定量の農薬が不可欠ですからどんどん自然がなくなってしまうんです。人間に住みやすい場所は、その他の生き物には住みにくい場所。いつの間にかそうなっていたんですね。だから、もしもこれから人々が頭の中に思い描く『自然』を手にしたかったら、それはもう人工的に作り出すしかないんです」
彼の言うとおりなのかも知れない。
全国各地で貴重な自然環境をそのままのかたちで残そうという取り組みが行われているけど、それには莫大な時間と労力が必要だって話。ただ放置をしているだけでは、うまくいかなくなってる。
「簡単にはいかない話だというのはわかってます。でも地元の皆さんもとても前向きになってくれてますし、これは長い時間を掛けてでも実現させるべきじゃないかと。もちろん、大学誘致の計画も悪くないと思います、農学部とかそれに準じた学部を備えている教育機関なら、ここの土地や環境も有効に利用できると思いますから。一時的な人口増加も悪くはないですよね、まずはこんな場所があるんだということを多くの人に知ってもらうことから始めればいいんですから。―― そのことも、これから検討課題に入れていくつもりですよ」
ちゃっかりしてるなー、さすが帰国後すぐに注目されちゃうだけのことはある。だけど、話を聞いているとだんだん不安になってくるなあ。今関くん、この事業にちょっとのめり込みすぎなんじゃない?
だから、ちょっと訊ねてみたら、彼はまたふふっと笑う。
「いいんです、今まではずっと先へ先へと突き進んで来ましたから。この辺でそろそろ方向転換をしないと、自分が参ってしまいます。ほら、……こうして大切なものはもう手に入ったんですから」
そこで、急に私の手をぎゅっと握りしめるんだもの、びっくりしちゃう。慌てて周りを見渡したけど、幸いなことに人影はどこにもなかった。
「アメリカに渡って、始めは勝手もわからないし、とにかく日本へ帰りたい帰りたいとそればかりを考えてました。でも……しばらくして、この場所にいれば学年を飛び越えて大人になれるんだと知ったんです。だからそのあとは必死でした、人よりも多く勉強して、とにかくどんどん前に進んでいきました。どうにかして、遥夏さんよりも年上になりたかったんです。それが叶うなんて、すごいことだと思いませんか。……まあ、結局は同い年止まりでしたけどね」
「……え、ええと……」
何だか、話が見えてこない。どうして私を追い抜かしたいとか思ったの? だって、私は今関くんのことなんて知らない。今だってもちろんすごく格好いいけど、だったら子供の頃だってすごく目立ってたと思う。もしも同じ小学校じゃなかったとしても、その噂ぐらいは届いてくるような。だって、弟の学年だし。
……え、そうか。弟の学年、ということは……。
「実は俺、昔一度だけ遥夏さんに出逢ってるんです。もちろん、遥夏さんがそれを知るはずはありません。だって、遥夏さんはそのとき舞台の上で踊っていたんですから」
私は思わず、息を止めてた。それって、もしかして……あのときの?
「遥夏さんの弟、繁とは同じサッカーチームで仲が良かったんですよ。で、ある日練習のあと、奴が珍しくまっすぐ帰るって言うから理由を聞いたら、お姉さんのバレエの発表会があるって。それで、興味本位で観に行って……あれはもう一目惚れって奴ですね。遥夏さん、本当に綺麗だった。本当のお姫様が絵本の中から出てきたのかと思いましたよ」
「……」
「家に帰ってすぐに自分もバレエ団に入りたいと親に頼みましたよ。でもよくよく調べたら、それはとても難しいことで、男子を受け入れてくれる団体すら探すのが困難でした。そうしているうちに渡米が決まってそれっきり。繁とはその後も手紙のやりとりをしていたけど、そのうちに宛先不明で戻ってくるようになって……とうとう連絡も取れなくなってしまいました」
だけど、入社した先で偶然見せられた写真の中に私の姿を見つけたって、そんなの信じられる? あまりにも話ができすぎていて、疑ってしまう。
だいたい、こんな恥ずかしい話。「はい、そうですか」って、真に受けられる? そんなの絶対に無理。
「わ、私、そんなんじゃないし。バレエだってそのあとすぐに辞めちゃったもの。だいたいっ、……私を手に入れたなんて、そんなの今関くんの勝手な思いこみだからっ!」
私が「お姫様」? 冗談でもやめてよ。だから、初対面で自分のことを「王子です」とか言ったの? それって、あんまりにも滑稽だと思う。
「うーん、そうですか。勝手な思いこみか……きついこと言いますね、遥夏さんは」
そう言いながらも、握りしめた手を離してくれないし、それどころかもっともっときつく握ってくる気がする。そうなると胸のドキドキまでが全部伝わっちゃいそうで、すごく恥ずかしい。
「でもいいんです、それでも。今朝、遥夏さんが待ち合わせ場所に来てくれた。それだけでもう十分ですから。こうして同じスタートラインに立てたんです、この先はゆっくりゆっくり時間を掛けて口説かしてもらいますよ? そういうのも、楽しいでしょう」
つづく (110502)
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