和歌と俳句

齋藤茂吉

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朝けより おもひ直して 黒き麺麭に 牛酪ぬるも ひとり寂しゑ

業房の 業を遂げむと いそぐさへ 心にかかる 地震のいたきは

維也納のごとく カフエにて時を過ごすこと ミユンヘンにては 心落居ず

往来に Massenkundgebung ありて 市民の心を 暗指しつつあり

おもほえず 君と相見て あなうれし 呉先生の ことをたづぬる

イサールの 河の激ちの しぶき浴び 繁樹くらきが 中に入り居り

山嶽の きこりの歌も 「緑なるイサール」の歌も こよひ身に沁む

民謡を 聴きながら泣く 女あり ただの淫傷と われおもはめや

部屋にゐて 寒さ堪へがてに 街ゆけば 維也納カフエを 見いでて入りつ

きのふより 暖められし 隣室に シュピールマイエル 口笛を吹く

こがらしが しきりに吹きて 橡の木の 黄なる落葉が 見る見るたまる

わが部屋に こがらし聴けば 山ふかき 中の風音 聴くがごとしも

愛敬の 相のとぼしき 老碩学 Emil Kraepelinを われは今日見つ

われ専門に 入りてより この老学者に 憧憬持ちしことがありにき

東京の もえ居る空が ほの赤く 碓氷峠より のぞみ得たりと

もみぢ葉の 黄に透りたる 木立にて そのひまゆ碧き イサールながる

イサールの ながれを越えて 向岸は 山につらなる 大高野はら

日本の 新聞を同胞ら あひ寄りて 息づまり読む 地震の事のみ

強き雨 ひと日降りしが 金色に ひかる夕空 ほそく見えそむ

暖めぬ 部屋にかへりぬ 湯婆にて 足をつつめば 足るおもひぞする

川べりを われひとり行く おもひきり 倹約せむと 心にきめて

一隊が Hakenkreuzの 赤旗を 立てつつゆきぬ この川上に

イサールの 川の川原に おりゆくに 水綿なびく 泉を見たり

業房に とどまり居よと いふ友の 強きこころに 涙いでむとす

日本飯 われ等くひたり 茶精といふ 粉を溶かして いくたびか飲む

行進の 歌ごゑきこゆ Hitlerの 演説すでに 果てたるころか