和歌と俳句

齋藤茂吉

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余響

子ら三人臥処のなかに入るまでは私事のごとくおもほゆ

しばらくの余響を吾は感じ居りヒンデンブルク元帥のこゑ

洋食をこのごろ食ひてあぶらの香しみこみしごとおもふも寂し

たのまれし必要あろて今日一日性欲の書を読む遠き世界の如く

われ医となりて親しみたりし蘆原も身まかりぬればあはれひそけし

岡麓先生還暦賀

さやかなる御生としもあふぐべく先づこの老に入りたまひけり

四月一日、神風号

一米あまり隔てて見つつをるこの飛行機は明日飛びゆかむ

流感

一冬を過ぎむとすればあやしくも風邪にかかり悲しむ吾は

窓の戸の白々あけに処々の肉いたみながらに熱おちにけり

神風号倫敦著

風邪の熱たかくのぼりて居りし夜神風号は飛行を遂げぬ

羊歯秀づ

青々とすきとほるまで茂りたる羊歯の荒まむこともおもはず

みづからは風邪のなごりのたゆくして羊歯むらのへに一日を惜しむ

涓滴

寒きより暖きに移りゆくころほひ気温の変動にいたく影響されるるまでになりし明暮

さだかならぬ希望に似たるおもひにて音の聞こゆるあけがたの雨

をさのごの筥を開くれば僅かなる追儺の豆がしまひありたり

極まりは一つになりぬこの吾を死骸とおもはば安らけくこそ

少年ひとり間道を走るところありタンネンベルク戦のはじめのころに

乳の中になかば沈みしくれなゐのを見つつ食はむとぞする

冴えかへる幾日か過ぎてなまぬるき気温にもわれは弱くなりたり

羊歯の芽に光のさすは午後二時を既に過ぎつつはかなくもふ

一冬は今ぞ過ぎなむわが側の陶の火鉢に灰たまりたる

マドリッドに迫れる兵も濫りなる戦死を避けて動くことなし

飛行場のあらゆるさまを見しむるを奢のためて何人か言ふ

春彼岸の寒き一日をとほく行く者のごとくに衢を徒歩す

松の果があまた落ちたり神森の手入とどきしゆふくらがりに

穴のなかに入りゆきたしといくばくの人は現に恥ぢにけるらし

人々は五分経たぬに目のまへの恋にこがるる写実をわらふ

私の感動ならず夕刊に「小受験戦士」といふ造語ありたり

はづしたる眼鏡畳に置きながら危とおもふことさへもなし