和歌と俳句

齋藤茂吉

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このやまに 鴉すくなし ゆふぐれて 小鴉一つ 地におりたつ

山かげの 楢の木原の 下枝にも 山蚕が居りて 鳥知らざらむ

大き石 むらがれる谿の 水のべに 心しづかに なりにけるかも

わがあゆむ 山の細道に 片よりに 薊しげれば 小林なすも

山なみの 此処あひ迫る 深谿を 見おろすときに 心落ちゐず

しばしして 吾が立向ふ 温泉の 妙見が嶽の 雲のかがやき

長崎を ふりさけむとする ベンチには 露西亜文字など 人名きざめり

多良嶽と あひむかふとき 温泉の 秋立つ山に ころもひるがへる

吾が憩ふ ひとついただきに 漆の木 いまだ小さく 人かへりみず

めぐりつつ 岨をし来れば 島山と 天草の海 ひらけたり見ゆ

なぎさには 白浪の寄る ところ見え この高きより 見らくしよしも

ものなべて 秋にしむかふ 広河原の 水のほとりに 馬居り走らず

山かげに 今日も聞ければ 晩蝉は 秋蟋蟀の 寂しさに似つ

やまかがし 草に入りゆくに 足とどむ 額の汗を 拭きつつ君は

石原に 来り黙せば わがいのち 石のうへ過ぎし 雲のかげにひとし

小さなる ばつたのたぐひ 跳ねゆきぬ 水涸れをりて 白き石はら

曼珠沙華 咲くべくなりて 石原へ おり来む道の ほとりに咲きぬ

けふ一日 雲のうごきの ありありて 石原のうへに 眩暈をおぼゆ

音たてて 硫黄ふきいづる ところより 近き木立に 山蚕ゐるなり

この山を 吾あゆむとき 長崎の 真昼の砲を 聞きつつあはれ

絹笠の 峰ちかくして 長崎の 真昼を告ぐる 砲の音きこゆ

ふか山の みづうみに来て ぬばたまの 黒き牛等は 水飲みにけり

山はらを 貫きめぐる 道ありて 馬駆けゆくが をりをりに見ゆ

山谿が 幾重の山の 中ごもり 南の流れ ここゆ出でむか

見おろして 吾居る谿の 石のべに 没日の光 さすところあり