和歌と俳句

齋藤茂吉

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けふもまた しづかに経むと 夏山の 青きがなかに 入りつつぞ居る

しらじらと 巌間を伝ふ かすかなる 水をあはれと 思ひ居るかも

山みづの 源どころの 土踏める 馬の蹄の あとも好きかも

石の上 吹きくる風は つめたくて 石のうへにて 眠りもよほす

くだり来し 谷際にして 一時を 白くちひさき 太陽を見し

谷底を 日は照らしたり 谷そこに ふかき落葉の 朽ちし色はや

谷かげに 今日も来にけり 山みづの おのづからなる 音きこえつつ

魚の子は かすかなるものか ものおそれ しつつ泉の 水なかにゐる

妙見へ 雨乞にのぼり 来し人ら この谿のみづ 口づけ飲めり

向山の むら立つ杉生 ときをりに 鴉の連の 飛びゆくところ

おのづから 夏ふけぬらし 温泉の 山の蚕も 繭ごもりして

ジユネーヴの アスカナシイの 業績を 語りたまひて 和に日は暮る

この山に 君は来りて 昆虫の 卵あつむと 聞くが親しさ

わが病 診たまひしかど 朗らにて いませばか吾の 心は和ぎぬ

湯平の 温泉の話も したまひて 君がねもごろ 吾は忘れず

萬屋に 吾を訪ひまし 物語る よりえ夫人は 長塚節のこと

長崎に 帰り来りて むしばめる わが歯を除りぬ 命を愛しみ

暑かりし 日を寝処より 起き来しが 向ひの山は 蒼く暮れむとす

公園の 石の階より 長崎の 街を見にけり さるすべりのはな

温泉より 吾はかへりて 暑き日を 歯科医に通ふ 心しづかに

のぼり来し 福済禅寺の 石だたみ よそげる小草と おのれ一人と

石のひまに 生ひてかすかなる 草のあり われ病みをれば 心かなしゑ

長崎の 午の大砲 中町の 天主堂の鐘 ここの禅寺の鐘

福済寺に われ居り見れば くれなゐに 街の処々に 百日紅のはな

ものなべて 過ぎゆかむもの 現身は しづかに生きて ありなむ吾よ