和歌と俳句

齋藤茂吉

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まくらべに 時計と手帳 置きたるに いまだ射しくる あけがたの月

起きいでて 畳のうへに 立ちにけり はるかに月は 傾きにつつ

山の上に ひとときに鳴く あかときの 寒蝉聞けば 蟋蟀に似たり

あかつきの さ霧に濡れて かすかなる 蟲捕ぐさの 咲けるこのやま

寂しさに 堪ふる寝所に 明け暮れし 吾にせまりて 青き山々

温泉の 別所の奥は 遠く来し 西洋人も まじりて住めり

木もれ日は しめれる土の 一ところ 微かなる虫の 遊ばむとする

谿水の ながるる音も 巌かげに なりて聞こえぬ このひと時を

牛ふたつ 林のなかに 来り居り きのふも此処に 来りてゐしか

あまつ日は からくれなゐに 山に落つ その麓なる 海は見えぬに

露西亜より のがれ来れる 童子らも はざまの滝に 水あみにけり

幾重なる 山のはざまに 滝のあり 切支丹宗の 歴史を持ちて

深き峡 南ひらきて おち激つ 滝のゆくへを 吾はおもひき

この山に 湧きいだしたる 幾泉 あひ寄り峡の 底ひに落激つ

安息を おもひて心 みだれざり ふもとの山に 紅き日かたむく

落つる日の 夕かがやきは この山の 平の居りて しばしだに見む

あかつきは いまだ暗きに この山に むらがりて鳴く のこゑ

たぎり湧く 湯のとどろきを 聞きながら この石原に 一日すぐしぬ

温泉が嶽に 十日こもれど 我が咽の すがすがしからぬを 一人さびしむ

水激ちけむ 因縁もしらず あしびきの 山の奥より 石原の見ゆ

ひぐらしは 山の奥がに 鳴き居りて 近くは鳴かず 日照る近山

かなかなの 山ごもり鳴くは 蟋蟀の あはれに似たり ひとり聞くとき

けふもまた 山泉なる 砂のべに 居るかな病める 咽を愛しみて

谿のうへの 樹を吹く風は 強くして わが居る石の ほとりしづけし

雨はれし 後の谿水 いたいたし きのふも今日も 赭く色づき走る