和歌と俳句

齋藤茂吉

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歸京

東京に 歸りきたりて 人ごろしの 新聞記事こそ かなしかりけれ

閨中の 秘語を心平らかに 聞くごとし 町の夜なかに 蛙鳴きたり

長崎より かへりてみれば 銀座十字に 牛は通らず なりにけるかも

さみだれの 日ならべ降れば 市に住む 我が腎ははや 衰へにけり

さみだれは しぶきて降れり 殺人の 心きざさむ 人をぞおもふ

わが心 いまだ落ちゐぬ くれなゐの 胡頽子を商ふ 夏さりにけり

われ銀座を もとほり居りて ブルドツク 連れし女に とほりすがへり

長崎の 晝しづかなる 唐寺や おもひいづれば 白きさるすべりのはな

朝はやき 日比谷の園に 腫みたる 足をぞ撫る 労働びとひとり

浅草の 八木節さへや 悲しくて 都に百日 あけくれにけり

長崎にて 暮らししひまに 蟲ばみし 金槐集を あはれみにけり

さ庭べに トマトを植ゑて 幽かなる 花咲きたるを よろこぶ吾は

けふもまた 何か気がかりに なる事あり 蟲ばみし書 いぢり居れども

畳のしたに ナフタリンなど ふり撒きて 蚤おそれゐる 吾をしぬばね

雑吟

心いらだたしく風吹きし 日は過ぎて かへるで赤く 萌えいでにけり

亀戸の 普門院なる 御墓べに 水き溝 いまだのこれり

月讀の 山はなつかし 斑ら雪 照れる春日に 解けがてなくに

ふきいづる 木々の芽いまだ 調はぬ みちのく山に 水のみにけり

谿ふかく しろきは吾妻 山なみの 雪解のみづの たぎつなるらし

みちのくの 春まだ寒し 遠じろく はざまをいづる 川のさびしさ

かなしきいろの紅や 春ふけて 白頭翁さける 野べを来にけり

われひとりと 思ふ心に 居りにけり をさなき蠶 すでにねむりつ

山がひに 日に照らされし 田の水や ものの命の 幽かなりけり

みちのくの わが故里に 歸り来て 白頭翁を掘る 春の山べに

山陰の しづかなる野に 二人ゐて 細く萌えたる 蕨をぞ摘む

みちのくの 春の光は すがしくて この山かげに みづの音する

かりそめと おもふは寂し 飼ひし蠶は 黄いろき繭に こもりはてたり