和歌と俳句

齋藤茂吉

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熊野越

雉子の雛 おぼつかなくも かくろひぬ 打ひらきたる 谷のうねりに

紀伊のくに 大雲取の 峰ごえに 一足ごとに わが汗はおつ

いましめて 吾等のこゆる 山路は 日にこがれたる 草ぞみだるる

やま越えむ ねがひをもちて とめどなく 汗はしたたる 我が額より

紀の海より ただに起れる 眼下の 幾山脈は うごくがごとし

くたびれて いこへるひまに 脚絆より とりし山蛭 ひとつ殺しぬ

峠路の ながれがもとの 午餉 梅干のたねを 谿間に落す

山なかの ほそき流れに 飯のつぶ ながれ行きけり かすかなるかも

暗谷に ありし泉に かがまりて 汗にぬれたる 眼鏡をあらふ

夏ふけし 大雲取を 越えながら 手拭の汗 幾しぼりつつ

山つみの 目に見えぬ神に まもられて 吾ら夕餉の くひにけり

しづかなる 眠よりさめ 三人くふ 朝がれひには 味噌汁は無し

あまつ日に 面をこがし 紀の国の 山をぞ越ゆる 北にむかひて

熊野路を 越えつつくれば 遙かなる 二山にわたり 焼けしあとあり

峰ごえを 一つをはりし 谿ぞらに 黒き蝶こそ 飛びをりにけれ

虹のわの 清けき見つつ 紀伊のくに 音無川を けふぞわたれる

山のうへに 滴る汗は うつつ世に 苦しみ生きむ わが額より

紀伊のくに 大雲取を 越ゆるとて 二人の友に まもられにけり

眼下に 小口の宿の 見ゆるころ 山のくだりは わが足によし

くに境ふ 山をやぶりて にごり水 あふれみなぎりし 時を思へり

ゆふばえの 雲あかあかと みだりつつ 熊野の灘は 夜にわたりぬ