和歌と俳句

齋藤茂吉

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逝きまして はや九年に なるといふ 御寺の池に 蓮咲かんとす

八千ぐさの 朝な夕なに 咲きにほふ 富士見が原に 吾は来にけり

日の御子 むかふる足る日と 信濃なる 富士見の里に われはめざめぬ

わが心 かたじけなさに 充ちにけり 雨さむきけふを あへる友はや

海の面 しづかになれる 朝あけて 四十八分の 時おくれしむ

あかあかと 濁れる海と 黯湛くも 澄みたる海と 境をぞする

戎克の帆 赭き色して たかだかと ゆく揚子江の 川口わたる

上海の もろもろの様相 人の世の なりのままなる ものとこそ思へ

「日本首相原敬被刺」と報じたる 上海新聞の 切抜しまふ

たちまちに 山上にのぼり 見おろせる 市街冬がれの さまにはあらず

海岸は さびしき椰子の 林より 潮のおとの 合ふがに聞こゆ

空ひくく 南十字星を 見るまでに 吾等をりける わたつみのうへ

汗じめる わが帳面の 片隅に ブルンボアンと しるしとどむる

ジヨホールの 宮殿のまへに 佇みし われ等同胞 十人あまりは

岬なる タンジヨンカトン 訪ひしかば スラヤの落葉 蟋蟀のこゑ

牛車 ゆるく行きつつ 南なる 國のみどりに 日は落ちむとす

火葬場に マングローヴ樹 植ゑたりき 其処の灰を手に すくひても見つ

赤き道 椰子の林に 入りにけり 新嘉坡の こほろぎのこゑ

はるばると 船わたり来て かなしきは ジヤランブサルの 夜のとよめき

マラツカの 山本い霞 たなびけり あたたかき國の 霞かなしも

東印度会社のしるし 今遺り 過去のにほひを 放ちてきたる

戦死者の 記念塔のまへに セナ樹うゑ 往くも還るも 見む人のため

マラツカの 街上にして われも見つ 富める女の 面の愛しきを

マラツカを はなれ来りて 入りつ日の 雲のながきに にほふ紅のいろ