和歌と俳句

齋藤茂吉

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とことはの よはひを籠めて ひむがしの わたつみのうへに 雲しづまりぬ

皇子のみや 生れたまひしと 稚等は わが部屋にかはるがはるいひに来つ

あらたしき 年のはじめと とどろける わたつみのうへの 雲ははるけし

あしひきの 山よりいでて いきほへる 朝明の川に 春たつらしも

わたつみの 浪のとどろく 暁に 千鳥のこゑも 幸よばふなり

春川の ほとりに生ふる つくづくし 生ふれば直ぐに 摘みて食べむ

足ることを 知れといひける いにしへの 聖もその時は 老い居りたらし

くれなゐに 染めたるを うつせみの 我が顔ちかく 近づけ見たり

近眼なる 眼鏡をはづし くれなゐの 梅をし見れば 大きかりけり

いにしへの 聖も愛でし くれなゐの 濃染のうめや 散りがたにして

春まだき 野べといへども けふ来れば 光みなぎり 草そよぐおと

いそがしく 駒場をよぎりて 行きしこと 少年の記憶の ただひとつのみ

ぬばたまの くらき夜すがら 空ひくく 疾風は吹きて 春来ぬらしも

わが籠る 机のまへの 壁ぬちに 鼠つつしむ ことさへもなし

君が墓 訪ひがてにして 年経れば 信濃のくにも 遠きおもひす

うつせみの 吾がまぢかくに ほしいままに 群りて紅き 梅咲きにけり

君が眼の 永久に閉ぢたる ころとなり 椎の落葉は 日にけにしげし

海のかぜ 山越えて吹く 國内には 蜜柑の花は 既に咲くとぞ

ゆふ闇の 空をとほりて いづべなる 水にかもゆく 一つ

やうやくに 五十五歳に なりたりと おもふことさへ 屡ならず

毒のある 蚊遣の香は 蚊のともを 畳におとし 外へ流るる

うつせみの 人のにほひも 絶えはてて 日もすがらなる 霧にくらみぬ

山の雨 たちまち晴れて わがにはの 杉の根方に 入日さしたり

白雲は 長く棚なし 箱根路の 強羅の天の 月てりわたる

あまねくも 日の光さし 茅蝉の 声のせざるは いづこに潜む

高萱の まぢかくにわれ 立ちて居り あらしは既に 和む山中