和歌と俳句

齋藤茂吉

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蜩の むらがり鳴ける こゑ遠く 麓になりて いまだ聞こゆる

あをあをと 茅萱の山は 起伏して ひがしの方に 波動のごとし

たまくしげ 箱根の峡は この峯を 境にしつつ 陰になりつも

来て見れば ただ茅萱生の あをあをと 山は目下に おちいりにけり

高山の 尾根の矮木に 蝉ひとつ 怪しく鳴きて 吾に聞かしむ

車前草は 群れひいでたる ところあり 嘗ての道と おもほゆれども

ほととぎす 湖ぞひの山に 今ぞ鳴く 強羅の山に すでに鳴かぬに

茅蝉に あらぬあやしき 蝉のこゑ 湖べの山に 鳴きわたりける

山がひに ひらくる空は しづかなる 萌黄になりぬ あはれその空

たまくしげ 箱根の山は 日もすがら 雨もひかりて 茅がやに降りぬ

すくやかに 老いつつありと ひとりごつ 月の落ちたる 山なかの空

ひさかたの 天より露の 降りたるか 一夜のうちに 萩が花咲く

あしひきの 山のたをりの 土のへに わがかげ長し 老いし朝かげ

夜の土に 鳴く蟋蟀の しげきころ われもこの山 くだりて行かむ

あまねくも 日は照らせれど 山山は こころひそけし 秋づきにけり

幾たびか この道来つつ 葛の花 咲き散らふまで 山にこもりぬ

しづかなる 秋の日ざしと われ言ひて 九月二日に 強羅をくだる

片よりに あらぶる雲は 寄りながら 強羅の天の 月冴えにけり

たたずめる わが足もとの 虎杖の 花あきらかに 照りわたる

月よみの 光にぬれて 坐れるは 遠き代よりの 人のごときか

たまくしげ 箱根のうみに 沿ふ道は 古き代よりの 物語あり

馬追も 山こほろぎも いそがしく 鳴く声きけば 秋ふかまむか

わが家に 帰りて見れば 朝な夕な 散りはじめたる さるすべりの花

一年に 一たび君を 偲ぶにも 幾人かはや 人の過ぎつる

丈ひくく 鶏頭の花 咲きそめて 一本ならぬ 親しさもあり