TopNovel>その微笑みに囚われて・1

 

 大通りから一本奥に入った細い路地を進んだところにある雑居ビルが私の仕事場。
 毎朝のことながら、迷路のように入り組んだ道を進むのは本当に大変。でも仕方ないの、ここが一番の近道なんだから。
  あーっ、こんなことならあと五分早く起きれば良かった! そうしたら、目の前でドアが閉まったあの電車に乗ることができたのに――と思っても、すべてはあとの祭り。いつもよりも遅めの出勤でいいって言われたら、その時間の分だけきっちり寝過ごしてしまうのが私らしい。
「つ、着いた……」
  ずっと小走りで進んできたからね、息が切れて苦しいったら。
  でも、ようやく目的のビルに到着したからって、まだまだ安心はできない。極端に床面積の少ないこの建物は周囲の高層ビルに負けじと階数だけは高くそびえ立ち、しかもエレベーターは一台だけ。運良く巡り会えれば吉日、でもタッチの差で逃したら最後、延々と開かずの扉の前で待ち続ける羽目になる。
「げっ、行ったばっかだし」
  エレベーターのドアの上にずらりと並んだ文字が、2、3、4とどんどん遠ざかっていく。
  こうなるとどう考えても階段を使った方が早い。今朝もそう判断して、私は非常階段へと方向転換をした。……うちの職場、七階なんだよ。軽く罰ゲームな感じだよね?
「はーっ、どこまで続くんだよ。この苦行……」
  つい先日、誕生日を迎えて、それでもまだかろうじて四捨五入して二十歳、つまり現在二十四歳(に、なりたて)。まだまだ自分としては青春真っ盛りのつもりなんだけど、最近とみに体力の衰えを感じている。
  学生最後の年にバイトで入ったこの会社に、翌年正規に本社員として採用された。そしてさらに丸二年が経過してる。社員って言ったって、やっていることはバイトの頃と全く変わらない。一番の下っ端という立場では、他の社員の雑用を一手に引き受ける毎日。
「えっとー、今日はまず公式サイトの更新からか。あれ、細かい作業が多くて面倒なんだよなー。イベント情報も更新しなくちゃだし……」
  一段ずつ階段を上がりながら、今日のスケジュールを確認していく。
  とはいえ、決まった通りにコトが運ばないのがこの業界。予定変更や中止も日常茶飯事だし、その情報伝達だけでも多くの時間を割かれる。急ぎの連絡に携帯電話が繋がらなくて半泣きになることもしょっちゅうよ。
  そんなこんなしているうちに、ようやく目的のフロアまでたどり着いた。そして――
「……」
  毎朝のことなんだけど。
  上半分に磨りガラスが埋め込まれた旧式のドアを開けかけて、そこでつい固まってしまう。
  だってね、薄暗い階段を上って上ってたどり着いた目の前、いつも私を出迎えてくれるのはこの特大ポスター。う〜んっ、これって剥がして持って行ったら泥棒だよね? だけど「同じのください」って言う勇気もないし……。
『僕の瞳は君のモノ』―― はああああっ、こんなコピー誰が考えたの! しかもこの、どアップ! くっきり二重の瞳の片方が私の手のひらを広げたくらいある――というのは、ちょっと大袈裟か。
  それにしても、すごいインパクト。一番感動するのは、ここまで引き延ばしても全然ボロが見えないってことね。ニキビ跡はおろか、毛穴だって発見できないよ!
  そう、甘〜い微笑みで訪れるみんなを迎えてくれるこの人こそ、我が弱小芸能事務所の稼ぎ頭。
「笹倉晶(ささくら・あきら)」って言えば、今や国民的若手俳優のひとり。ううん、筆頭って言ってしまってもいいかも。まだ本決まりではないけれど、来年の大河にメインキャストのひとりで……という打診が来てるんだよ。コレが本当になったら、ますますすごいことになりそうだ。
  う〜ん、今朝も相変わらず素敵な笑顔。まずは思いっきりエネルギーを充電させてもらおうっ。下っ端雑用係の一日はとにかく忙しい。途中でエンスト起こしている暇もないほどだもの。
  ……とか、そんなことをのんびり考えていたら。
「ああ〜っ、千里(ちさと)ちゃん! もうっ、こんなところで何しているのっ!」
  ばったーんと奥のドアが開いて、飛び出してきたのはカオル先輩。今日も完璧にカールした髪をたてがみのように揺らしている。
  この人は私がここにバイトとして雇われたとき、業界の仕事を一から教えてくれた恩人だ。もしも先輩がいてくれなかったら、三日ももたずに音を上げていたと思う。
「あっ、いえっ……おはようございます!」
  特大ポスターに見とれてましたなんて言えるはずないし、慌ててその場を取り繕う私。
  やばやばっ、私が「晶くん命」なことは絶対に内緒なの。だってそういうヨコシマな考えで近寄ってきた求職者は全員ばっさばっさと切り捨てられてしまうの目の当たりにしてるから。
  ホント、よくもまあ、ここまで三年以上ばれずにすんだものだ。もしかして、私って役者の才能あるのかな……?
「ほらほら、千里ちゃん! 早く早く!」
  あれ〜、どうしたんだろう。今日の午前中、急ぎの仕事は入ってなかったはずだよな。だからゆっくり出勤でいいって、昨日のうちに言われていたんだよ。
  でも、私の腕をぐいぐい引っ張りながら先輩の放った言葉には、さすがに腰が抜けるかと思った。
「社長が待ってる、話があるって。もう三十分も前から、ずっとよ!」
  え〜っ、嘘! そんな馬鹿な。
  思わず表情が固まってしまった私、でも目の前の先輩も同じくらい驚いているみたい。
  そりゃそうだよ。だって、社長が午前中にここにいることって、すごく珍しいことだもの。
  バイトを始めた当初、私は彼が午後五時出勤するシフトなんだって本気で信じていたくらい。まあ「社長」なんだから、スケジュールなんて何でもアリだろうけど。とにかく、いつもそんな感じなの。
  なのに、どうして。もしかして、今日は午後から赤い雪が降るとか……!?
「千里ちゃん、もしかしてとんでもないヘマでもした? あ〜あ、知らないわよ、私はっ」
  ……ええと、今、私も先輩とぴったり同じことを考えてました。
  でも、そんな覚えはないよ? 少なくとも社長を通常より八時間も早く出社させるほどの大失敗なんて、恐ろしくて想像もつかない。
「ほらほらっ! とっとと、行った!」
  広いフロアを可動式の壁で区切っただけのスペース。だから、今のやりとりだって、奥の部屋にいる人に全部丸聞こえなはず。
  そう思いつつも、パーティションの陰からそろーっと中を覗いてみた。
「やあ〜、チィちゃん。おはようっ!」
  机の上にうずたかく積み上げられた書類の上に靴を履いたまんまの足を乗せてる姿、彼のはき出すタバコの煙で辺りがもうもうとしている。無精ひげにくしゃくしゃ頭。ごみ箱の中から奇跡的に蘇ったように見えるこの人が、我が「日の出芸能事務所」の社長なのだ。
  うわっ、本物! しかもすぐに気づかれちゃうし。
「おっ、……おはようございます」
  身近に喫煙者がいなかったこともあって、最初にこの部屋に入ったときには呆然とした。
  とりあえず「社長」というだけあって、与えられている専用スペース。実家の私の部屋よりもだいぶ狭いから、四畳半、ううん三畳くらいかな? そんな場所にありとあらゆるものが隙間なく積み上げられているって有様。きっとその隅々まで煙草臭が染みついていると思うよ。
  どうみても「ごちゃごちゃ」としか言いようがないのにね、「○○の資料をください」って言うと、あっという間に今にも崩れそうな山の中から見つけ出してくれる。もしかしてこの人って芸能事務所の社長よりも、もっと他の職業に向いているんじゃないかなと本気で思う日もあるわ。
  ……じゃなかった。ここはさっそく本題に入らなければ。
「えと……何かご用だと聞いてきたのですが」
  私の質問に、社長はのそのそと面倒くさそうにちょっとだけ身体を揺らした。
「あ〜ん、……そうそう! そうなんだよねえ……」
  何なの、その気のない反応。まあ、普段からこういう感じの人だから仕方ないんだけど、早朝から待機していたって割には緊張感がないよね。
「……」
  次の言葉がなかなか出てこないから、ふたりして「お見合い」みたいになった。いや、むしろ大相撲で時間前にやる「にらみ合い」みたいな感じかな。もちろん、ぼんやりとした眼差しを見てもその真意なんてさっぱり分からなかった。
「……うんにゃ、チィちゃん」
  よっこらしょ、と体勢を立て直して。どうやら一応、真面目に話し合いをする姿勢になってくれたみたい。
  でも、ホッとしたのもつかの間。次に社長の口から飛び出したのは、私の予想なんて全く及びもつかない言葉だった。
「チィちゃん、さ。しばらく、晶のマネージャーやってくれる?」
  ――は? 今、なんて言いました?
「……」
  それって「今日の昼ご飯はにこにこ食堂の出前弁当にしてくれる?」ってノリとはちょっと違いますよね? ええと、……ええと。
「えっ、えええーっ!? いきなり何言い出すんですかっ!」
  とりあえず何か返事をしなくてはと口を開いたら、とんでもない叫び声が出てしまった。
  仮にも会社で一番偉い人に向かって、こんな言い方をするのは失礼だとは思う。でも、さすがにこれはないっしょ、絶対にあり得ないから。
「冗談も休み休み言ってください。頼みますよ、社長!」
  何で、下っ端も下っ端の私がそんな大役をっ。晶くんはウチの事務所にとって一番大切な宝物でしょうっ! そんな彼のお世話を私に任せるなんてっ、悪ふざけだとしても絶対に言っちゃ駄目だよ……!
  もしや、今日ってエイプリル・フール!? いったい全体どうなっちゃってるのよっ!
  だけど、社長といえば。こんな風に私が慌てていることの方が不思議だって顔をしている。
「え〜、冗談なんかじゃないよ。俺はいつも、本気の本気。悪いけど、他に適当な人間がいなくてさ。とにかく、よろしく頼むよ」
  そのまま話を終わらせようとするんだから、焦ってしまう。本当に何なのっ、いい加減にして!
「あのっ、晶くんのマネージャーだったら、木原さんとか他に適役がいらっしゃるでしょうっ! そちらに声をかけてくださいよっ、私は困ります……!」

   

つづく♪ (110524・1003改稿)

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