珍しく、満ち足りた気分で目が覚めた。ここしばらくは気持ちの休まることがなかったから、寝ても寝ても寝たりないくらいだったのに。
うーん、不思議だなあ……と思いつつ、目を開けたら。
「……っ!」
思わず大声で叫びそうになった自分を、慌てて押しとどめる。それは、かなり苦しい行為だった。
――でもっ、……これって、さすがに。
声を止めた瞬間に、一緒に息も止まっていた。
目の前、ほんの十数センチのところにあるのは、「あの」笹倉晶の寝顔。横向きで寝ているのは移動中のタクシーで何度も見ていたけど、真正面からは初めてだ。無防備の状態だというのに、完璧な美しさを保っているのがさすがだと思う。
「うっ、うわあっ……!」
そ、そうか。昨日は一緒のベッドでとか信じられないことを言われて、でもなんかもう限界っぽかったからそのまま寝オチしちゃったんだ。
びっしり生えそろった長いまつげに額に落ちる前髪、口元には淡い笑みまで浮かんでいる。そんな姿で、朝日に照らされているわけでしょう、頬が金色に輝いてとても綺麗。
ひとしきり鑑賞したあと、さすがにこれはまずいだろうと慌てて後ずさりする。相手に気づかれないよう、毛布の中からそっと抜け出る感じでベッドを降りるつもりが――
「――ぎゃあっ!」
急に背中からシーツの感触が消えた。と思った次の瞬間にはそのまま床に落下。ごん、という、色気の欠片もない音があたりに響き渡った。
「あいたたたた……」
目の前、星が飛んでるし。
なんか、近頃の私って、転んだり滑ったり、こんなのばっか。このままだと、榊田さん以上の大怪我をして生命の危機に直面してしまいそうな気がする。
どうやら気を取り戻し、後頭部をさすりながら起き上がったところで、ベッドの上でなにやらごそごそ動く気配。
「なんだ、結局落ちたのか」
そして彼は、上体を起こして大きく伸びをする。当然ながら身体に掛かっていた毛布は重力に従ってずり落ちていくわけだけど……
「うわっ、うわわわっ……!」
今度こそ、大声が出た。いや、今叫ばなくていつ叫ぶんだってくらいのノリで。
「なっ、なんで! なんで、なにも着てなんですか……っ!」
そんな馬鹿な。昨夜最後にこの人を見たときには、ちゃんと服を着ていた。うん、とても冷静ではいられないような状況ではあったけど、それだけは覚えている。
「えーっ、……千里が入ってきて、暑苦しくなったから脱いだ」
そのまま毛布から抜け出てくるから慌てて目を背けたけど、どうやらハーフパンツは履いたままだった様子。
――で、でも……私って、こんな格好の笹倉晶と一枚の毛布にくるまってたの!? これって、半端なく危険な状況だったんじゃない!?
「ふうん、チィちゃん、もしかして萌えちゃった?」
座り込んだままの私の背後から、彼は覆い被さるように身を寄せてくる。ハニーフェイスに似合わず、体つきは結構がっしりだから、胸板とか背中にくっつくとすごい男っぽい。
「うっ、うわっ、なんですかっ!」
「決まってるだろ、朝の挨拶だよ」
当然のように肩に手を回されて、唇の表面が触れあうような淡いキス。起き抜けの彼の体温が、ものすごく近くに感じ取れて、金縛りにあったような気分になる。
「ちっ、ちょっと! やめてくださいって……!」
やだやだっ、朝からなにやってるの! っていうか、こういうことは時間も場所も関係なくやめて欲しい。
しかもそのまま抱きついて来そうになるから、慌てて振りほどいた。
「嫌だなあ、いまさら照れることもないのに」
けだるそうに髪をかき上げる姿も、どうしようもなく色っぽい。だけど、私には彼の行動のひとつひとつがどっきりカメラのように思えてならなかった。
し、心臓が、飛び出してきそう……。
「俺、少し台本読むから、先にシャワー使っちゃって。早くコスプレしてくれないと困るな。いつまでそんな格好でいたら、本気で襲いたくなるよ?」
……こいつ。
絶対に、わざとやってるよね。ここまで気持ちがこもっていない台詞っていうのも、すごすぎる。
「はいっ、それでは遠慮なく……っ!」
その後、私が最初にしたことは、昨日どこかに飛ばされてしまったままだった伊達眼鏡を探すことだった。
その日のロケは、午前中は順調。でも、お昼を過ぎる頃からだんだん雲行きが怪しくなってくる。……あ、ロケの進行が、じゃなくて天候そのものが、だ。
「こりゃ、マズいなあ。本格的に降り出したら、厄介だぞ」
生暖かい風が吹き抜ける中、監督も不安げに空を仰ぐ。
ドラマは短いコマごとに撮り溜めてあとから編集して繋げるわけだけど、ずっと晴れ渡った空の下で続けてきたシーンがいきなり雨降りになったりしたらヤバイわけだ。何気なく視聴している方は当たり前のように通り過ぎることができるのも、制作者の人の苦労や努力があってこそなんだね。まあ、多少の空の色ならあとから調整できるらしいけど。
それに持ち込んだ機材によっては、ちょっとの雨が掛かるのもまずいものもある様子。そういうのの近くには常に青いビニールシートが置かれている。それが今、バタバタと風に煽られていた。
「や〜んっ、ひどい風〜っ! 麗奈の髪がばさばさになっちゃう〜っ!」
翻るスカートを抑えつつ、相変わらず自己主張の激しい彼女。次のシーン待ちの晶くんに、ささっと擦り寄る。
「ねえっ、晶く〜ん。このあとどうなるんだろうね。もしも撮影が延期になったら、ふたりでお茶しない? 出演者同士で親睦を深めるのって大切でしょう〜?」
わざと大声で言っているあたり、絶対に周囲に聞かせるつもりだよね。大丈夫かな、晶くんの機嫌がまた悪くなってないだろうか。不安になってこっそりと振り返ってみると、そこには意外な光景が広がっていた。
……あれ、晶くん、笑ってるし。普通に接しているし。
これはちょっと肩すかし、まるでドラマの中のように仲睦まじいふたりに見える。麗奈ちゃんも嬉しそうに笑いながら、肘で軽く晶くんを小突いたり。なんかすごい楽しそう。
――ふうん、上手くやってるじゃない。
そう思って私がそっと視線を外そうとしたとき、晶くんがふっとこちらに顔を向ける。そして、思わせぶりにニヤッと笑ったのだ。
「……っ!?」
これはかなりの破壊力。なんなのあれ、なにが言いたいの……っ!?
しかも彼、麗奈ちゃんになにかひとこと告げたあと、こっちに真っ直ぐに歩いてくる。
「――岡野さん!」
よそ行きの笑顔が私に向けられる。
「はい、なんでしょうか」
しかし、ここで動揺してなるものですか。私も何気ない素振りで、微笑み返す。
すると晶くんは親愛に満ちた表情を少しも崩すことなく、私のすぐそばまでやってきた。そして、耳元でぼそりと。
「わかりやすく顔色変えてやがるの、可笑しすぎて見てられないよ」
「……なっ!?」
なんでなんで、私がこんな風に言われなくちゃならないの? これって、セクハラ? それともパワハラ!? ……くううっ、悔しいっ!
「悪いけど、コーヒーを二本取ってくれる?」
思わずにらみ返そうとした私に向けられた「業務命令」。こういうときも全然顔色変わらないんだよね、さすが役者。
「はい、こちらです」
「ありがとう」
なんで二本? って思ってたら、麗奈ちゃんに一本渡してるし。ほらほら、また勘違いするほど喜んでるよ。いいのかなあ、あんなことして。
いくら担当マネージャーだからといって、彼の一挙一動に目を光らせてなければならないという決まりはない。しかも晶くんはとっくに成人した大人だ、ある程度は自由にさせて構わないと思う。
そう、私にもそれくらいはわかってる。
だからといって、いちいち神経を逆撫でられることをされたら、やっぱ面白くないよ。
……そりゃあ、晶くんは私がもともとファンだったってことを知らないのだから仕方ないけど。
どこでどうやってスイッチが入っちゃったのやら。ちょうどいい暇つぶしとか思われているんだろうな、悔しいけど。はあああっ、ホント、最低っ……!
天候が心配な中、それでも撮影は進んでいく。私もときどき空を確認しつつ、その状況を見守っていた。
麗奈ちゃんも昨日よりは調子が出てきたみたい、駄目出しされる場面も次第に減ってきてる。カメラが彼女を微妙に外しているというのもあるのだろうけど、それ以外の動きを見てもだんだん様になってきているのがわかった。
――そうかあ、なんだかんだいっても、彼女もプロの女優さんなんだよね……。
当たり前のことを思い出して、妙に納得したりして。甘えた笑顔なんて同性の私から見てもすごく可愛いし、とても魅力的だと思う。
「……あれ?」
そのとき、上着のポケットの中で携帯が震えだした。撮影現場では、迷惑にならないようにマナーモードにしている。私は、ちらとあたりを見渡してから、迷惑にならないような場所まで移動して通話ボタンを押した。
「――もしもし?」
『やっ、チィちゃん! ごめんごめん、急に声が聞きたくなっちゃってさ〜』
……コイツか。
慌てていて、相手を確認しないままでボタン操作してしまったのが敗因。最初からわかっていたら、留守番サービスに回しちゃったのに。
「どのようなご用件でしょうか?」
なるべく一本調子な声で、事務的に受け答えする。しかし、ショウは少しも臆する気配もなくあっさりと言った。
『明日、休みだろ? 少し時間取れないかな、話がしたいんだ』
つづく♪ (111216)