TopNovel>その微笑みに囚われて・36

 

 その言葉の意味するところは、はっきりとわかった。でも、不思議と躊躇う気持ちはなかった。
  谷底まで降り注ぐ横殴りの雨が、トタン屋根に壁に、バラバラと降り注いでくる。その音に背中を押されるように、私は毛布の中を少しずつ移動した。真っ暗闇の中だから、彼に辿り着く方法はそれしかない。
  程なくして、私の左腕が温かいものに触れた。
「今夜はずいぶんと素直だな」
「……え?」
「いつもは、必死に逃げようとするくせに」
  私はその意地悪な言葉には答えず、毛布の下で彼の肩に寄り添う。二の腕をとおして伝わってくる体温が、ほんのりとしたぬくもりを運んできた。
「仕方ないです、こっちも限界まで寒いんですから」
  もうひとつの暖かさに触れたことで、自分の身体がどんなに冷えていたかを思い知らされた。濡れた服のままでいるよりはいくらか状態が良いのかも知れないが、薄い毛布一枚でしのげる夜じゃない。
「……だろうな、鳥肌立ってる」
  腕と腕がぴったりくっつく距離にいても、それでも晶くんの声は聞き取るのがやっとのくらい遠かった。だから必死に耳を澄ます、こぼれる音色をひとつも取り逃がさないように。
「幻滅しただろ」
  そこで一度言葉を切って、晶くんは溜息をついた。
「笹倉晶の正体がわかって、さ」
  不規則な雨音が、待ったなしで吹き付けてくる。それと同じくらい、彼の胸の中も泣いているような気がした。
「別に……最初から期待もしてませんから、幻滅のしようもないです」
  こんなときまで本音を隠してしまう私。
  実はちょっとだけ、恨んでたりはするんだよ。ファンの集いに何度も出かけたのに、握手してもらったことだってあるのに……この人の記憶の片隅にさえ残ってないんだなと思ったら。
  そもそも、アイドルとそのファンなんて、そんなものなんだろうね。いちいち、落ち込んでたって仕方ない。
「ふうん、そんな風に強がったりするんだ」
  暗がりでなにも見えないはずなのに、その瞬間の表情だけははっきりと感じ取れた。拗ねるような、それでいて自信たっぷりのような……大人になりきれてない少年を残した彼だけが持つ独特の色。
「でも、知ってる? 男って、そういう挑発には食いつきたくなるんだよな」
  左耳に吐息が掛かる。本当に、信じられないほどの不意打ちだった。
「え、えええっ……」
「汗かいたら、外でいくらでも天然のシャワーが浴びられるし。結構な好条件だと思うけどな」
  さすがの私も、どっきりと胸が高鳴った。
「だ、だからーっ。そういうのは、誰でもいいって話じゃないでしょう。悪いけどっ、こっちにだって選ぶ権利はありますから!」
「そんなこと言って。千里だって、その気になってるだろ。こんなチャンス、二度とないぞ。ここで断ったら、あとで死ぬほど後悔することになるんだからな」
  間髪入れずに切り替えされて、しばし言葉を失う。聞きようによっては、かなりすごい台詞。だけど、だからといって、このまま流されてしまっていいわけじゃないと思うけど。
「――まあな、お前はショウの奴の方が好みなんだろうから、こういうのは不本意だとは思うけど。そろそろ観念しろよ、一生忘れられない最高の思い出にしてやる」
「だ、だけどっ!」
「いいだろ、いつかは誰かにやるもんなんだし。一番最初はインパクトがあった方がいいぞ?」
  次々と並べ立てられる言葉は、かなりすごいものだった。
  もしもこの部屋のどこかに盗聴器でも仕掛けておけば、どこかの週刊誌にでも売り込んですごいお金になるかなとか。
  でも……実際は、もっと切実な、痛々しい彼の本音がそこから見え隠れしていた。
  どうして、こんなことがわかっちゃうんだろ。晶くんはまだ、この瞬間にも自分を責め続けている。私にこうして悪態をつくことで、どうにか自分を保っているって感じ。
  ――本当は、大声で泣きたいんじゃないかな……。
  私の前でまで、強がることないのに。今更、なにが起こったって全然驚かないのにね。
  だから、言ってみた。自分の頭に、この瞬間に思い浮かんだままの言葉を。
「……晶くんって、本当に榊田さんのことが大好きだったんですね」
  一瞬彼が、息を呑むのがわかった。
「いきなり話をすり替えるな、そんなことはどうでもいいだろ」
「どうでもよくはありません、とても大切なことです」
  もう一度、きちんと向かい合いたいと願っていたはずだ。私の目から見ても、本当の兄弟のようだったふたり。お互いの想いがすれ違ったまま終わってしまうなんて、とても残念なことだ。
「あの人は、……俺のことが嫌いだったよ」
  まだ粋がろうとする、心が泣き声を上げているのに。
「いいじゃないですか、たとえ片思いだったとしても。誰かを好きになるって、とても大切なことだと思います」
  そう、私だって同じ。晶くんを初めてテレビで見かけたその日から、目の前が急に拓けた。誰かを想うその気持ちが、自分を揺り動かす大きな原動力になる。
「……千里のくせに、偉そうなことを言うな」
  晶くんは、喉の奥で低く笑ってから続ける。
「確かに、俺にとって榊田さんは絶対的な存在だった。あの人の言うとおりにやっていれば、大抵のことは上手くいったしね。もしも、困った事態になっても、必ずなんとかしてくれた。だけど、あの人はそれに対する見返りを期待していたんだよな。それに気づいたとき、すごくショックだった」
  建物の外壁に、また雨粒が強く打ち付けてくる。あまりの強風に、部屋全体が揺れているような気がした。
「でも、千里はそうじゃないよな。お前は俺のためにたいしたことはできないけど、その代わりに見返りも求めない。不思議な奴だよ、こんないい男がヤらせろって言ってるのに」
「そっ、……それとこれとは話が別です!」
「なにも違わねえだろ? 同じことだよ」
  そう言うと、彼はいきなり私を強く抱き寄せた。
「あ、晶――」
「黙れ」
  え、ええと……この状況は、どうやって説明したらいいんだろう。
  抱きしめられているというよりは、抱きつかれていると言った方が正しい。私の背中に腕を回した彼が、胸に顔を埋めてる。……まあ、残念ながら彼の顔が埋まってしまうほどの豊満さはないんだけど。
「俺に兄貴がいるのは知ってるだろ。デキのいい奴でさ、ガキの頃から両親の自慢だった。そんな奴とずっと比べられて、なにもできない奴と罵られ続けたら、世間を恨みたくもなるだろ。だけど……あの人だけは違ったんだ。いつだって、俺のことを一番に考えてくれた。俺のやりやすいように道を作って、いつもフォローしてくれて。あの人のお陰で、俺は救われたんだ」
  あえて名前で呼ばない「あの人」が誰なのかは、すぐにわかった。
  晶くんのプロフィールに添えられた家族構成は頭に入ってる。でも、彼自身の口から家族のことが語られることはほとんどなかった。インタビュー記事の中にもそれらしい内容はなかったように記憶している。
「……誰にも、この気持ちはわからない」
  本当に、そのとおりなんだろうなと思った。晶くんの記憶は晶くんだけのもの、どんなに詳細にその内容を語られたとしても、他の人に百パーセント理解することはできっこない。
  彼の言葉はそこで途切れた。だから、そのあと私の耳に届いたのは、荒れ狂う外の物音だけ。意識して考えないようにしてた。考えないようにしているけど……やっぱり、わかっちゃう。晶くんは泣いていた、声も立てずに。ブラに包まれただけの胸元が、彼の涙でしっとりと濡れている。
  ――やっぱり、辛かったんだろうな。
  ギリギリまで、悩んだんだと思う。自分でもどうしたらいいのか、わからないほどに。
  でも晶くんにとって、「役者」として生きることが一番大切なことだった。唯一無二の道を汚すことはどうしてもできなかったんだと思う。
  でもそのことは、大切な人を裏切ることになるんだ。本当は、役者としての自分も榊田さんのことも、どちらも同じくらい護りたかったに違いない。
  どんなことにも真剣に取り組む、自分にも周りにもとても厳しい人。私が「笹倉晶」という役者に間近で接して受けた印象だ。この人は決して天才ではない、人の何倍も努力して、そして今の地位を手に入れたんだと思う。しかもそのことを、ちらりとも感じさせない「役者」なのだ。
「……今夜のことはすべて忘れろよ。初めからなかったことにしてしまえばいいんだ」
  確かに、こんな風に強がるのも「らしくない」ことだね。だけど、私はこんな晶くんもいいなと思ってしまう。その気持ちを素直に口にしたら、すごく嫌がられるとは思うけど。
「そうですか、……ちょっともったいない気もしますけど」
  ほとんど裸の状態で抱き合って、いろんなところがくっついてすごくくすぐったい。晶くんの柔らかい髪が胸の上の敏感な部分に触れるから、それだけで変な気分になったりする。
「このまま、襲ってもいいんだぞ」
  そうなっても別に構わないかもって想いが、胸をちらりとかすめた。でも、その一方で、そんなことは絶対に起こりえないということもわかっていた。
「そろそろ、覚悟ができた頃だろう」
  そうかも知れないな、って思う。……ううん、ホントはね、晶くんだったら絶対に後悔しない気がしてた。
  温かい腕に包み込まれて、すごく幸せな気持ちになる。
  朝になれば溶けてしまう魔法。今夜だけでいいから、晶くんにとって一番大切な相手になることができたなら。
  いろんな想いがごっちゃになって考えがまとまらなくなって、そうしたら何故かとろとろと眠りが訪れてきた。大丈夫かな、こんなところで寝ちゃって。そう思ったけど、もう意識をつなぎ止めておくのも無理。
  記憶が途切れる瞬間、私の額に優しいキスが落ちてきた気がした。

   

つづく♪ (120305)

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