TopNovel>その微笑みに囚われて・35

 

 幸いなことに、下着までは濡れていなかった。とりあえず、お互いに水着と同じレベルの着衣を残せることとなってホッとする。いやいや、こんな非常時にそんなところまで気を回す必要もないんだけど、……やっぱりね、ついつい。
  一枚の毛布をそれぞれの端から身体に巻き付けて、服が乾くまでしのぐことにした。無人の小屋に置き去りになっていたものを素肌に巻き付けるのはさすがに抵抗があったけど、それでもなにもないよりはいくらかマシだと思う。
  晶くんの言葉どおり、程なく日が落ちて小屋の中は真っ暗になった。それと比例して、ぐっと冷え込んでくる。標高の高いところでは真夏でも雪が残ることがあるとか聞いたことはあるけど、本当にゴールデンウィークあけとは思えない気温だ。
「ここ、どのあたりなのかわかりますか?」
  空気の薄さで標高がそれなりにあることはわかるが、眠らされたままの移動ではどこまで連れてこられたのかまったく見当がつかない。
  だけど、晶くんなら。私のこと、必死に探してくれたんだから……って期待したんだけど。
「悪いな、タクシーの運転手に任せて途中は寝てた。なんかこのところ、疲れが取れなくてさ」
「そ、そうでしたか……」
  あっさり言われてしまって、脱力。
  なんなの、ショウといい、晶くんといい。かなりの有名人なんだから、もうちょっと緊張感持った方がいいんじゃないかと心配になる。
  でも、彼は一呼吸置いてから付け足した。
「たぶん、長野とかそのあたりの山奥じゃないかな。この空気、前に感じたことがある」
  さすが人気俳優、ドラマや映画のロケで各地に出向いているもんね。土地勘もそれなりにあるのかも。
「えーっ、そうだとしたら、ずいぶん遠くまで来ちゃってますね……」
「ま、仕事の方は社長が上手いこと騙くらかしているだろ、あの人はそういうのが得意だから」
  雨はまだ降り続いている。夜になって、さらに雨脚が強くなったみたい。時折、風に煽られるのか雨粒がバラバラとトタン屋根にまとまって落ちてくる。
「……足、大丈夫か」
「え、ええ、……まあ」
  本当のところは、右足全体がじんじんしてかなりヤバイ感じ。でもそれ以上にすごく寒いし、そっちばっかりに気が回らないことも確かだ。
「冷やしたり温めたり、余計なことはしない方がいいだろうな。とにかくは夜明けを待とう」
  冷え切った空気をかすかに震わせて、耳に届く声。
  晶くんの地声って、甘い顔立ちからは考えつかないほど低い。話し方もぽつりぽつりって、淡々としてる。
  最初の頃はすごく驚いた、想像していたよりもずっとぶっきらぼうだったから。でも今では、これが本物の晶くんなんだなってホッとする。
「……驚いただろ」
「え?」
  雨音にかき消されそうになる声に、私は小さく反応した。本当に真っ暗、なにも見えない。お互いの存在は毛布から伝わる気配で感じてる。
「榊田さんのこと」
  それは、驚くほど抑揚のない言葉だった。行き場をなくした心までが一緒になって、私の耳に届いてくる。
「というか……まだ、信じられません」
  いきなり別人の方になってしまった榊田さん。すぐそばでそれをはっきり感じ取っていたのに、あの場で起こったすべてを事実として受け入れることを私自身が拒否している。
  思い出すと……ひとりでに身体が震えてしまう。
「……だろうな」
  晶くんは低い笑い声を上げた。
「俺だって、最初は信じられなかった。いや、信じたくなかった。絶対にありえない、まさかあの人が――」
  もしかしたら。
  もしかしたら、と思う。
  私の知らない事実が、まだまだたくさんあるんじゃないだろうか。なにひとつわかってないまま、関わり続けていたから、結局はすべてに中途半端なままだ。
  毛布がつん、と少しだけ引っ張られた気がする。それに続いて、晶くんの口からふっと小さな吐息が漏れた。
「彼に初めて出会ったのは、十八のときだった。前にも話したよな、高校にはほとんど行ってなかったって。金さえ払えば上手いこと手回しして卒業させてくれるような最低のところでさ、それがわかったらやる気もなくなったってとこ? ……まあ、そんなのもただの言い訳だろうな。とにかく、世の中のすべてが面白くなくて、どうにでもなれと思ってた。でも――あの人が目の前に現れて言ったんだ、『一緒に夢を見てみないか?』って」
  その場で手渡された名刺は、どこかにしまい忘れてしまったと言う。いきなり声を掛けてきた見ず知らずの大人の言うことなんて、最初から信じるつもりもなかったんだとか。でも、次の日もその次の日も、榊田さんは繁華街にやってきた。そして、果敢に食い下がった。
「そーしてるうちに、適当にあしらうのもだんだん面倒になってきてさ。どうせろくでもない人生なんだから、ちょっとくらいの暇つぶしもいいかと思い始めたんだ。それで、事務所に連れて行かれて社長に紹介されて、即契約。最初の半年は役者の基本をみっちり叩き込まれた。でも不思議と辛くはなかったな、やればやるほど面白い、こんな奥の深い世界があったんだって気づいた。本当に――夢中だったと思う」
  私が初めて観た晶くんは、教室の片隅で心細そうにしている一生徒だった。今の彼からはとても想像ができないほどの初々しさだと思う。
「役者の仕事は天職だった。毎回新しいことの連続で、まったく飽きが来ない。最初は早くの仕事がたまに入るくらいだったのが、気がつくと途切れなくなって、そうしているうちに選ばなくてはならない程になった。だけどあれは、別に俺が特別だからってわけじゃなかったんだよな。――裏でずいぶんと榊田さんが手を回してくれていたことに、まったく気づいてなかった。目の前の仕事に夢中になりすぎて、その背後にあるものを確認することを怠った。それも俺の失態だったと思う……気づいたときには、後戻りのできないところまできていた」
「え……?」
  話の内容がよくわからない。後戻りのできない状況って、それっていったいなに?
「お前だって、聞いたことあるだろ? この業界が、裏の世界と繋がっていること」
  そこで、晶くんはまた、低い笑い声を上げる。
「……ま、千里はそんな話を聞いても信じようとはしないだろうけどな」
  まるで、自分自身を嘲るような言い方が、すごく悲しく感じられた。
「榊田さんも……最初からそんなつもりじゃなかったと思う。ただ、俺の仕事を増やしたくて、そのために必死に頑張ってくれていた。ヤバイ橋だって、俺のために渡ってくれたんだ。でも――いつの間にか、榊田さんは変わってしまった……挙げ句、俺を連れて事務所から独立すると言い出した。そしてそれを断ると、今度はこんな行動に……」
  晶くんの声が、次第に掠れがちになる。呻くように、苦しそうに、それでも自分の気持ちを吐き出そうとする彼がそこにいた。
「え、でも」
  私は慌てて口を挟む。
「でも、待ってください。榊田さんだって、誰かにあんな怪我をさせられたんでしょう? だったら、真犯人は他にいるってことで――」
「違うんだ」
  しかし、晶くんの声が鋭く私の言葉を遮った。
「あれは、俺がやった。気がついたら、階段から突き落としていた。でも……そんなときにも榊田さんは笑ってた。『これでお前の弱みをしっかり握った』ってね」
「で、でもっ、それって……」
  そんなのって、まるっきりの脅迫じゃない。正当防衛だったら、仕方のないことだと思う。
「誰にも相談なんてできなかった、社長の耳に入れるなんてもってのほかだ。どうにかして、元通りの彼に戻って欲しかったのに……だけど社長は、最初からすべてを知っていたんだ。知っていて、わざと榊田さんを泳がせておいたんだと、昨日はっきり言われた。自分だけでどうにかしようなんて、思い上がりも甚だしかったってことだな」
  病院にお見舞いに行ったときに私が見たふたりのやりとりも、すべては本音を隠したままの「演技」だったってこと? でもそれって、いったいなんのために?
「千里になにも言わなかったのはすまなかったと思ってる。でも、できることなら巻き込みたくなかった。まさか、こんなことになるなんて……榊田さんは千里を使って、俺に決断を促すつもりだったんだと思う。だからって、こんなことまで……」
  時折、雨音が強くなり、晶くんの声が聞き取りにくくなる。
  しんしんと冷え込んでいるのは、私の身体だろうか。それとも心? かじかんだ指先から、冷たいものが流れ込んでくる気がする。
「榊田さんがあんな風になってしまったのは、俺のせいだ。だから、自分ひとりでどうにかしたかった。それなのにあの人は……最後まで俺の声に耳を傾けてはくれなかった」
  押し殺したすすり泣きの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
  今をときめく若手人気俳優「笹倉晶」、その無限とも言える商品価値を野放しにしておく手はない。誰もがそう思うだろう。だけどそれは、本人の気持ちを踏みにじってまで強行してはならないはずだ。
  晶くんは、本当に榊田さんのことが大好きだったんだと思う。灰色の世界から引き上げてくれた「神の手」、夢の舞台まで導いてくれたその人を慕わない方がどうかしてる。
  なのにそんな気持ちを逆手に使うなんて。
「その――」
  どんな言葉を重ねたところで、彼の心の傷を癒すことなんてできない。それがわかっているのに、どうにかしたいと思ってしまう私がいる。でも、言葉が続かない。
「千里」
  そのとき、晶くんが毛布を強く引くのがはっきりわかった。
「寒いな、……こっちにこないか?」

   

つづく♪ (120301)

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