TopNovel>その微笑みに囚われて・30

 

 やばい、と思ったときにはもう遅かった。
  慌てて飛び退く間もなく、唇が塞がれる。しかも、当然のように舌まで差し込まれるし。
「……うっ、うう……」
  愛情とはまったく違う感情が、ねっとりと伝わってくる。――そう、これは「憎悪」。または「嫌がらせ」だ。私がすごく困るのがわかってて、彼はそれを意地悪く楽しんでいる。
「ちゃんと反応しろって言っただろ。飲み込みの悪い奴だな」
「……あっ、晶くん! やめて、こんなの駄目です……!」
  彼の片腕は私の背中に回り、がっちりと押さえ込まれている。甘く柔らかい外見に似合わず、晶くんは結構な力持ちだったりするから、こうなってしまうと自力で逃れることは不可能になる。
「俺には待ったをかけて、他の男と仲良くする。その魂胆はなんだ? 言っただろ、俺、そういう風にされるの、一番嫌いなんだよね」
  一度唇を外して、彼は私を睨みつける。
「せっかく可愛がってやるって言ってんのに、人の厚意を無にするって、人間として最低じゃん。……ほらっ、わかってんのかよっ!」
「だっ、だから、あれは」
「お前は俺だけ見てればいいんだ、他の奴なんかすべて無視しろ」
  そう告げる彼の瞳が、ほんの少しだけ揺らめいた気がした。これって、私の気のせい? ……ううん、そうじゃないと思う。そういえば晶くん、なんかいつもと違うし。
「あ、あの、私……」
「うるさい」
  晶くんのキスは乱暴だ。叩くように殴るように、心の奥まで浸食してくる。
  本当はファン冥利に尽きるんだと思うよ、同じ風にされたいと思っている女子はたくさんいるはずだし。晶くんと一日中一緒にいて言葉を交わしたり触れ合ったりできるのって、……本当に本当にすごいことだ。
  だけど、……私はこんなの嫌。どうしたって、耐えられることじゃない。
「……げるなよっ!」
「え?」
「逃げるなって、言ってんだ!」
  いきなり束縛されたと思ったら、今度は急に振り払われる。とはいえ、それほど強い力じゃなかったから、バランスを崩して転ぶとか、そこまではいかなかった。
「……あ、晶くん……」
「なんだよっ、どいつもこいつも好き勝手言いやがって!」
  ――ええと、なにこれ。
  演技? お芝居の一部だったりする? いや、違う。今回の役柄である「ミノル」はどこまでも穏やかな天使のようなキャラだ。もちろん、自分をしっかり持った芯の強い一面もあるのだけど。
  じゃ、じゃあ……これは。
  しばらくの間、晶くんはその場に立ちつくしたまま微動だにしなかった。
  ここのホテルは間接照明になっていて、一番明るくしてもなんとなく薄暗い。落ち着いた雰囲気を出しているつもりなんだろうけど、私はちょっと苦手。どうせなら、蛍光灯の安っぽい明るさの方がいいなと思う。
「……先にシャワー浴びてくる」
  それまでの空白がなかったかのように、彼は急に軽快に動き出す。あたかも、新しい電池に取り替えられたロボット人形のように。
「な、なんなの。どうなってるの……!」
  ぱたんと閉じたドアの音にハッと我に返る。
「す、好き勝手言ってるのは、そっちの方でしょうが……」
  まだ唇が、じんと痛い。
  愛情の欠片もないやりとりは虚しいだけ、そんなこと晶くんだってわかってるはずなのに。
  なんのためにこんなことするんだろう。そりゃ気の張る毎日を送っていれば、気分転換をしたくなる気持ちもわかる。でも、だからといって、どうしてその相手が私? マネージャーだから、いつもそばにいるから手っ取り早いと思っているんだろうけど、……こっちはやりきれない気持ちになるよ。
  私はね、笹倉晶という俳優に、ずっと憧れていたんだよ。その六年間を裏切らないでよ。そんなの知ったことじゃないと言われたらそこまでだけど……でも、こんなことを繰り返してたら、もっとすごいことしちゃったら、私はきっと一生、晶くんから逃れられなくなってしまう。
  世の中には割り切れる人間と、そうでない人間がいる。そのことをきちんと理解してよ。そうしてくれなくちゃ、この先、絶対やっていけない――
「……え?」
  頭の中でごちゃごちゃ考えていたら、部屋に備え付けの電話が鳴るのにも気づかなかった。ルームサービスとかを頼むときの内線電話。いったい、なんだろう。
「……もしもし……?」
「フロントです、そちらは505号室ですね?」
  すぐに柔らかい女性の声が、受話器の向こうから聞こえてきた。

 エレベーターの扉が開くと同時に、フロントへと走る。部屋には置き手紙を残してきたが、なるべく早く戻らないとまたなにを言われるかわからない。
「すみませんっ、今電話をいただいた者ですが――」
  あまりに急いだので、少し息が切れた。私はカウンターに手を添えると、呼吸を落ち着けながら続ける。
「事務所の者が書類を持ってきたとのことですが、ええと……どこに?」
  私がきょろきょろとあたりを見渡すと、受付の女性も驚いた顔で言う。
「あら、つい今し方までこちらにいらっしゃったのですが。外に出られたのでしょうか?」
  え、どういうこと? ちょっとの間なんだから、待っててくれても良かったのに。
「ええと、今こちらに来た者は、名前はなんと言ってましたか?」
  事務所の人が急ぎの書類を届けに来たという話だった、いったい誰だろう。このホテルに私たちが宿泊をしていることは、事務所内でも限られた人間しか知らないはずなのに。
「いえ、お名前までは。そうですね……すらりとした若い女性でしたよ」
  うーん、それならカオル先輩かな。電話でも掛かってきて、席を外したんだろうか。
「わかりました。私、ちょっとそのへんを見てきます」
  こんなところでのんびりと待っている場合じゃない。今夜の晶くんはこの上なく不機嫌だから、これ以上へそを曲げたら大変。
「すみません、お願いします」
  受付の人はホッとしたように言う。今の時間はひとり体制らしく、この場を離れることができないのだろう。
「いえ、こちらこそありがとうございました!」
  私は正面入り口の二重になった自動ドアから外に出ると、すぐ前の通りを左右に見渡した。
「ええと……先輩、どこだろう」
  カオル先輩は、長身のカーリーヘア。遠くからでもよく目立つから、すぐにわかるはずなのに。そんな姿、どこにも見えない。……っていうか、まだそれほど遅い時間でもないのに、人っ子ひとり歩いてないよ?
「どうしたんだろ、表通りのコンビニかな?」
  携帯で呼び出してみようかとも思ったけど、その相手がカオル先輩だと確定してないんじゃ仕方ない。うーんと、それなら直接事務所に掛けてみようかな。今の時間なら、運が良ければ誰かがまだ残ってるかも――
  そんな風に考えながら、携帯を操作していたときだった。
  車道の脇に止まっていた車のドアがいきなり開く。とっさのことに慌てたものの、すぐに脇に避けようとした。しかし、その動きが制されてしまう。
「えっ――」
  言葉がそこで途切れたのは、後ろから口を塞がれたからだ。そのまま、強い力で車の中に引きずり込まれる。
「間違いないな、この女だ」
「よし、車を出せ」
  ――なっ、なんなのこれ! いったい、どーなっちゃってんの!
「……むっ、むぐむぐむぐ……」
  どうにかして口を開きたいのに、すごい強い力で塞がれちゃって、どうにも無理。しかも、両腕までが背中の後ろで掴まれている。そうなると残るのは足なんだけど、そっちも背後に回った男の足でがっちり押さえつけられていた。
  困るっ、でもこれはかなり困る。
  私、一刻も早く部屋に戻りたかったから、だから訪ねてきたという事務所の誰かをホテルの建物の外まで探しに出たんだよ? それが、いきなりこんなことになっちゃって、逆に大変なことに。
「――ってえっ!」
  しょうがないから、口を覆う指の一本を思い切り噛んでやった。だって、失礼にも唇を割って半分中に入り込んでいるんだよ? 気色悪いったら、ありゃしない。
「なんなのよっ、あんたたち! とにかく、今すぐここから降ろして! 私っ、早く帰らなくちゃいけないんだから――」
  とにかくは車を止めようと、運転席に後ろから体当たり。これって、かなり危険な行動だけど、他にどんなやりようがある?
「――こっ、このっ、アマっ!」
  ぎゃあああっ、背後の男が抱きつくみたいに私を拘束してきた。
「はっ、離して! 離して離して離して……!」
  そんなこと言ってもね、車の中はそんなに広くないし。力の強さでは絶対負けてるから、すぐに捕まっちゃうの。
「大人しくしてろっ、痛い目に遭いたくなかったらな……っ!」
  とか言いつつ、いきなりみぞおちに衝撃が走る。自分の呻き声すら聞こえないままに、私は意識を手放していた。

   

つづく♪ (120210)

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