TopNovel>その微笑みに囚われて・42

 

 ドアを開けた瞬間、私は大袈裟なくらい顔を歪めていた。
「わーっ、なんですか! そんな格好のまま、出てこないでください……!」
  着替えの途中なのか、それとも最初からはだけていたのか、目のやり場に困るシャツ。どうして、そんなよれよれなの。もうちょっとは気を遣って欲しいんだけど。
「えーっ。だって、チィちゃんがいきなりインターフォンを押すから……」
「その呼び方もやめてください! 私には『岡野千里』という名前があります」
  一度は開いたドアをばたんと閉めて、はあっと大きく溜め息。今日のスケジュールは昨夜のうちに伝えておいたのに、約束の時間に支度が全然できてないってどういうこと?
「俺が寝起き悪いこと、知ってるだろ? だったら、ちゃんと逆算して起こしてくれなくちゃ。なんなら、枕元まで来てモーニングキスしてくれてもいいんだよ〜」
  まだブツブツ言ってる。でも返事なんかしない、そんなことしたらますます図に乗るんだもの。
  小早川翔矢の担当マネージャーになって、早二ヶ月。毎日毎日振り回されっぱなしで、気の休まるところがない。「忙しい」とひとことで片付けられない雑用が束になって追いかけてきて、深夜布団に入ってからも明日の予定が頭の中をぐるぐる回っている。
  ショウは「びっくり箱」みたいだ。行く先々で私の予想を遙かに超える行動に出て、必要以上に事態を混乱させてくれる。ドラマの撮影になれば、共演者とのトラブルは起こって当然。しかも、本人はまったく反省する素振りもない。従って、私があっちに頭を下げ、こっちに詫びを入れ、彼の尻ぬぐいに奔走することになる。
  それでとんでもない事態に陥るかと思いきや、何故かその逆だったりするんだよな。
  現場が凍り付くような口喧嘩を繰り広げた大物俳優とは、その後にプライベートで飲みに行く仲になったり。つい最近なんて、新築したばかりの豪邸に招かれたと言われ、いったいなにがどうなっているのかわからない。手土産を準備するようにと言われ、悩みに悩んだ挙げ句に無難な花かごを選んだら、帰りにその倍くらいある花を「お返しにもらった」と手にしてきた。
  しかも、やたらとセクハラしてくるし。
「ねえ、チィちゃん〜そろそろ俺に惚れちゃったりする?」
  今朝も迎えの車に乗りこんだ途端にこれだ。その上、肩に腕を回してこようとするんだもの、慌てて振り払った。
「本当につれないなあ。そりゃ、アキラからは釘を刺されているけど、チィちゃんの方から迫ってくれれば言い訳になるのにさ」
「冗談はそれくらいにして、本日のスケジュールの確認です。午前中は昨日に引き続き写真集の撮影になります。この通り天候も申し分ないですから、カメラマンの北島さんからビーチでのショットを中心にしたいとの連絡が来てます。それから、昼食を挟んで――」
  私が話を続けていると、ショウの携帯が鳴る。
「……あ、ごめん。ちょっといい?」
  メールの着信だったみたいで、慣れた手つきで操作してる。一通り内容を確認したのか、彼は携帯を閉じた。確か、この人ってスマホのCMに出演していたはず。それなのに、未だに携帯を使い続けているのが不思議。しかも、つい先週に機種変してるし。
「もういいよ、続けて」
  時代劇の撮影も一区切り、そうしたら今度は写真集の仕事が入ってきた。スケジュールの都合もあって、今回は国内での撮影。でも北は北海道から南は沖縄まで、「なんでこんな場所で?」みたいな撮影が続いている。
「はい、昼食を挟んで午後からはM社のインタビュー。その後、夕陽をバックにもう一度撮影を行います。そして、最終の便で東京に戻ることになります」
  おーっ、自分で読み上げてみても、なかなかの強行スケジュール。それでも今回はお天気が良かったから、すごく順調だった。もしも途中で雨でも降られたら、そこからあとの日程がすべて狂ってしまう。
  しかも今回担当してくれるカメラマンは妥協を許さない人として有名、そんな人とショウがタッグを組むんだから、周囲は冷や冷やし通しだ。
「ふうん、そうか。じゃあ、夜はチィちゃんとふたりっきりだね」
「……そろそろ到着です、支度してください」
  この二月で極めたのは、どんな発言もかわせるスルー力かも知れない。

 ドラマのときと同様、撮影中は私の仕事は暇になる。だから、いろいろと問い合わせをしたり電話での打ち合わせをしたり。それから溜まり溜まったメールを返信したり。雑多な作業に追われることになる。
  そんな感じで今日も、ビーチの片隅にあるコテージのテーブルに書類を広げていた。
「岡野さん、お客さんです」
  しばらくすると、カメラマン助手の女の子が声を掛けてくる。
「はーい、今行きます〜」
  なんだろ、午後からのインタビューでなにか変更事項でもあったかな。そう思いながら、私は席を立つ。ドアの外で、細身の男性が待ちかまえていた。
「こんにちは、お久しぶりです、岡野さん」
「は、はあ……」
  すぐにぺこりと頭を下げられたけど、こちらは唖然。思わずなんて適当に合わせてしまったけど。……で、いったい、どなた様?
  私の表情を見てすべてを悟ったのだろう、彼は微妙な照れ笑いを浮かべる。
「その節は大変お世話になりました。私は岡野さんの前任者になります、今倉と申します。おかげさまで、身体の方も全快しまして、このように舞い戻って参りました。本日まで、誠にありがとうございました」
「……え?」
  なにそれ、どういうこと?
「どうしました、なにも聞いていませんか? 私の療養中に限って、岡野さんに小早川をお預けすることになっていたんですよ。こうして元気になりましたから、任務交代です」
「や〜っ、今ちゃん! 待ってたよ〜!」
  そのとき、背後からもうひとりの声がした。もちろん、それはショウのもの。
「あ、あのっ、小早川さん。これはいったい――」
  慌てて訊ねる私に、ショウはきょとんとした顔になって答える。
「えーっ、今聞いたとおりだよ。チィちゃんはこれでお役ご免。ご希望通りに、日の出芸能事務所へ戻れるよ。あっちの社長から、さっき連絡があった」
「えっ、えええ……」
  聞いてない、そんなの全然っ、ひとつも聞いてない。そりゃ、借りてきた猫状態の私がいつまでもこの事務所で仕事してるわけにはいかないだろうとは思っていたけど、まさかこんなに急に?
「このたびはいきなりのことで本当に申し訳ございませんでした。小早川はこのとおりの奴ですから、岡野さんにもずいぶんとご迷惑をお掛けしたことでしょう。でも、これでいて、なかなか可愛いところもあるんですよ」
「おいおい、よせよ、今ちゃん。照れるじゃないか」
  ショウは長い髪をかき上げて、頬を赤くする。へええ、こんな表情もしたりするんだ。私とふたりでいるときとは、だいぶイメージ変わるな……。
「岡野さん」
  のんびりとそんなことを考えていたら、不意に名前を呼ばれる。
「は、はいっ!」
「あちらに。あなたに是非会いたいと言う方をお連れしました。長旅のあとでまだ時差ボケも直っていないそうですが」
  今倉さんの含み笑いが、潮風に吹かれていく。
「え……」
「チィちゃん、すぐに行ってやりなよ。……まあ、どうしても俺の方がいいって言ってくれるなら、話は別だけどね」
  ショウまでがそんなことを言う。
  だからわかった、これ以上はなにも聞く必要がなかった。でも……足がすくんで、なかなか前に進まない。
「ほーら、そんな顔しないの。感動の再会じゃないか」
  勢いよく背中を押される。少し前のめりになりながら、わたしはようやく数歩前に出た。

 白い車の向こう、潮風に吹かれて立っている人影がある。
  柔らかい髪がふわふわ舞い上がって、白いシャツが気持ちよさそうに風を孕んでいた。
  もちろん、忘れたことはない。他のことを考える暇もないほどの忙しい毎日だったけど、それでもふっと思い出してしまう瞬間がある。だけど、その気持ちに負けちゃ駄目だって、ずっと我慢してた。
  ……どうしよう、本当に?
  これがドラマのラストシーンだったら、迷わずに駆け出すんだろう。でも私は、やっぱりヒロインにはなれない。突き抜けるような青空、白い砂浜に透明な海。最高のロケーションに、ひとり浮いてしまう。
  開きかけた唇が空を切る、心臓の鼓動が馬鹿みたいに早くなって胸から飛び出してきそう。
  ゆっくりと、振り返る人影。私の髪も潮風に大きくなびいた。
  目と目が合ったその瞬間に、きっと新しいストーリーが始まるはず。

   

とりあえず、おしまい♪ (120317)

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