TopNovel>その微笑みに囚われて・20

 

「……カーット! 良かったよっ、ふたりとも……!」
  その声が耳に届くまで、ゼロコンマ何秒。……だったのかも知れないけど。とにかくそれが、とてつもなく長い時間に思えた。
  その間、私の頭の中は真っ白。目の前を通り過ぎた嵐が、一瞬にしてすべての感情をどこかへ吹き飛ばしてしまったかのようだった。
  ――ど、どうして。これって、アドリブって奴……!?
  多分、その場に居合わせた他の人たちも、そして誰より当事者のひとりである麗奈ちゃんも、ほぼ私と同じ気持ちでいたに違いない。
  どこからも誰からも次の言葉が発せられることはなく、しばらくあたりはしーんと静まりかえっていた。
  屋外ロケの現場、夕暮れの涼風が、さらさらと木の枝を揺らして通り過ぎる。
  その風に誘われるかのように麗奈ちゃんから素早く離れた晶くん、彼は呆然とするばかりの現場の人たちをぐるりと見渡した。
「お疲れ様でした!」
  お得意のアイドルスマイルで彼がそう告げると、まるで魔法が解けたかのようにふっと場の空気が緩む。皆の視線がすべて自分に集まっていることを知りながら、晶くんはその表情を少しも崩すことなくこちらに歩いてきた。
  当然、私の隣に立つ松井さんにも気づいて、親愛に満ちた会釈をする。しかし、彼は私の前に立ち止まることもなく、そのまま脇を通り過ぎた。
「早いとこ、ズラかるぞ」
  一瞬だけ、耳元をかすった台詞。慌てて振り向いたときにはもう、彼は住宅地の角を曲がるところだった。
  その首には、何故かグリーンチェックのショール。……え、あれって、私のでしょ……!?
「あっ、あの――」
  改めて考えるまでもなく、私は笹倉晶のマネージャーだ。彼の仕事スケジュールを常に完璧に管理し、無事にその全てをクリアするために存在する。今日最後の仕事は、ロケ地から本日の宿泊先まで彼をきちんと送り届けること。
  だけど、なんでこんなに逃げ足が速いの! ちょっと待ってよ、コンパスの差があるんだから、少しは手加減してくれたっていいのに……! こっちは荷物もあるの、飲み物を入れてるクーラーバックだって肩から提げているんだよ? そういうのさ、「俺が持つよ」とか気を利かせてくれたってよさそうなものを。
  しかし、その後も晶くんは一度も後ろを振り向くことなく進み、大通りに出たところでタクシーを拾う。一瞬置き去りにされるのかとひやりとしたけど、とりあえず車は私が駆けつけるまでちゃんと待機してくれていた。
「遅い」
  とにかくは走って走って。もうっ、心臓が爆発するんじゃないかと思うギリギリのところまで頑張ったと思う。それなのに、晶くんはそんな必死の私をチラッと見て、ひとこと。そのあと、ぷいと横を向いてしまう。ねぎらってやろうなんて気持ちは、毛頭無いみたいだ。
「じゃ、出発していいですか〜?」
  バックミラーを覗き込みながら、運転手さんが言う。
「はいっ、お願いします!」
  そうか、ここには第三者がいたんだ。じゃあ、あまり余計なことを言わない方がいいかも。
  さっきのことだって本当は聞いてみたかったけど、そんな情報が今、外部に漏れたら大変なことになりそう。
  私が喉まで出掛かった言葉を必死で抑え込んだ頃、晶くんはいつもの充電タイムに入っていた。

 運転手さんが迷いもなく進行方向を決めたのは、晶くんが前もって行き先を伝えてあったのだろうと判断する。なんか、今日はいろいろありすぎて疲れた。そういうことも全部ひっくるめてお給料をもらっているんだから当然と言われそうだけど……この仕事、私に全然向いてないんだもの。
  夢の中まで一緒にいたい大好きな彼と、いつも一緒にいることができる。ファンとしては、この上ないラッキーな境遇だとは思う。でも、いちいち心臓に悪いこと多いし。私の場合は、遠くからうっとりというポジションの方がずっと合ってたんだなと気づいた。
  ――今回のドラマも、大ヒットになるのかな……。
  たぶんそうなるだろうと思うし、そうなってくれないと事務所としても大変だ。稼ぎ頭にコケられたら、明日からの生活が立ち行かなくなる。
  だけど、どうしてなんだろう。すごくモヤモヤしている。自分でも理解の出来ない感情が、さっきから胸の中で渦巻いていた。

「おい、起きろ」
  あれ、もしかして寝てた?
  ハッとして我に返ると、窓の外は真っ暗。うわーっ、移動中に片付けておこうと思った仕事があったのに……!
「ほらっ、さっさと行ってこい」
  続いて身体をドアにぐいぐいと押しつけられて、なにかと思う。そして、よくよく見ると、タクシーが止まっていたのはお弁当屋さんの前だった。オレンジ色の看板が暗闇にピカピカと浮かび上がっている。
「夕飯、適当に調達しろ。まさか、ファミレスで食うわけにも行かないだろ?」
「はっ、はい……!」
  そっかー、……そうだよな。
  私は慌ててタクシーを降りると、テイクアウトの店内へと駆け込んだ。
  このところは、ずっと同じような食事内容。お総菜の種類は毎回変わっても、お弁当ばかりをつつく毎日は味気ない。とはいえ、晶くんほどの有名人にもなれば、人目に付きやすい場所にのこのこと出かけていくわけにも行かないんだな。
  ――せめて、野菜や果物が多めに食べられるといいなあ。
  そう思って、温野菜のサラダとかフルーツの盛り合わせとか、サイドメニューをチョイス。あと、野菜スープも買おうかな。
  正直、私の方はサンドイッチが一切れか二切れあれば十分なくらい。美味しそうな食べ物を前にしても、食欲なんて全然湧いてこなかった。
「榊田さんも……こんな風にお弁当屋さんで買い物していたのかな」
  カラーシャツにジャケットでお洒落に決めている彼が、鮭弁当とか選んでいる姿を想像するのは難しい。でもまあ、仕事内容は同じようなもののはずだもん。そう外れてはいないと思う。
  じゃなかったら、自分が行きつけのレストランに予約を入れて、個室みたいな場所で食事をしているとか? ああ、そっちもありそうだな。
「どっちにせよ、榊田さんが早く戻ってきてくれればいいだけの話だ」
  あくまでも私は臨時のマネージャー。いろいろ厄介なことに巻き込まれかけてはいるけど、それもすべて榊田さんの復帰でチャラになる。そうだよ、あと少しの間の我慢なんだから。
  そんな風に思い切ろうとしても、胸の中のモヤモヤが消えることは決してなかった。

「本日も一日お疲れ様でした。夕食はこちらに並べておきますから、着替えが済んだらどうぞ」
  そう言って旅行カバンを手にしたところで、晶くんがこちらへと振り向いた。
「おい、どこに行く」
  相変わらず機嫌の悪そうな声。それを振り切るように、私は言い返していた。
「今夜は、自分の部屋に戻ります。まだやり残した仕事もありますし、晶くんもゆっくり休んだ方がいいと思います」
  昨日は勢いで押し切られてしまったけど、今日は年長者らしいところをしっかり見せなければと思った。こんな風にお互いにピリピリしていたら、気の休まるところがない。彼にとって、私の存在が苛立ちの原因になっている。そのことは、よく分かっていた。
  そして、私もまた。今夜は、この人のそばにいたくない。これ以上は、絶対に嫌だと思っていた。
「千里」
  でも、晶くんは、すぐさま私の行く手に立ちはだかった。
「いつからそんな偉そうな口をきくようになった。お前はそんな立場にないはずだ」
「え、でも……」
「仕事なら、ここでだってできるだろう。それにお前にとって最大の任務は、俺のボディガードだ」
  また、そんなことを言い出す。それが、決め台詞とでも思ってるの?
「平気です、このホテルのセキュリティーは万全だと、社長も太鼓判を押してましたし。もしも不安があれば、フロントに連絡してこの階だけ特別に警備を強化してもらいます」
  どうして、ここまで意地を張ってしまうのか、自分でもよくわからなくなっていた。
  夕方からずっと、胸につかえているモヤモヤで息をするのも苦しくなっている。
「……ふーん、そういうことか」
  そこで、晶くんは数時間ぶりに笑顔になった。
  でもそれは、ファンの心を魅了するいつもの表情にはほど遠い。片方の口端だけをちょっと上げた、すごく意地悪いものだった。
「部屋に戻って、男を連れ込もうって算段? そんなことしたって、すぐにバレるからな」
「……は?」
  一瞬、自分の耳を疑っていた。
「そ、それって、どういうことですか!」
  失礼にも程がある。どうして自分の部屋に戻るってだけで、そんな言いがかりをつけられなくちゃならないの。
  でも、晶くんは私の威嚇にもまったく動じなかった。
「俺がなにも知らないと思っているのか。屋外ロケをいいことに、男と密会しようなんて十年早いの。人のことコケにすんのもいい加減にしろよ」
「……男? 密会っ……!?」
  さらに訳のわからない単語を並べられて、私は混乱する。
「俺、目の前でそっぽ向かれるの、最高にむかつくんだよな」
  そう言い終える前に、晶くんの右手が私の頬に伸びる。もしかして、ひっぱたかれたりするの? 反射的に目を瞑ってしまった私は、次の瞬間、自分の唇にとてつもない違和感を覚えていた。

   

つづく♪ (111117)

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