最初に耳に届いたのは、静かな雨音だった。等間隔に途切れなく、静かに静かに降り注いでいる。
でも不思議。そうでありながら、私にはひとつの雨粒も落ちてこない。
「……千里っ、千里っ!?」
乱暴に肩を掴まれて、強く揺り動かされる。私を呼ぶ声が幾重にも反響して、耳に届くまでにいくらかの時間がかかるような気がした。
すごく、深い。まるで海の底にでも沈んでいるみたい。
「……う……」
「千里!」
視界がぱっと開けたら、目の前に笹倉晶のどアップが現れた。すごい、他のモノがなにも見えないほどの大写し。こんなポスター、私の部屋に貼ってあったっけ……
「……千里っ、良かった!」
いきなり、がっと抱きすくめられる。そのときやっと、私の頬にぽつぽつと雨粒が降りかかった。
「あ、……晶くん?」
なに? なにがどうなってるの!? よくわからない、記憶が繋がってこない。私は戸惑いつつも、しばらく彼のぬくもりに身を預けていた。
「どこか痛むか? ……違和感のあるところはないか!?」
「え、ええと……」
矢継ぎ早に質問されて、私はさらに混乱する。
――どうしたんだっけ、私。
確か……知らない倉庫みたいなところで目覚めて、それからショウに会って。脱出したら、晶くんがいて。それから――
そこで、ようやくハッと閃いた。
「あっ、あの! ……ここはっ、榊田さんは……!?」
いきなりの、場面転換。
あまりにも信じられない出来事の連続に、すべてが夢だったのではないかとも思えてくる。だって、絶対に変だった。ほんの十分かそこらのやりとりだったけど、そこあったのは今までの予想とはまったく別の事実ばかり。つじつまが合わなすぎて、吐き気がしてくる。
――どうして、榊田さんが私のこと……そして、晶くんの態度だって。
思わず額に手を当てた私に、晶くんが答える。
「ずいぶん深いところまで落ちたみたいだな、上の方は煙っていてよく見えない」
「落ち、た……?」
そうだ、私は榊田さんたちの車に轢かれそうになったんだっけ。それで、足を踏み外して……
「ああ、運良く低木が群集している上に落ちたらしくて、たいした怪我もなくすんだらしい。まったく、お前は運が強いな」
そう言われてみると、腕とか足とかになにかに引っかかれたみたいな違和感がある。だけど、出血などは見あたらず、とても高い場所から落ちたとは思えないほどぴんぴんしていた。
「で、でも、晶くんはどうして……?」
ここまでひとりで助けに来てくれたの? でも、たったひとりでやってくるなんて、あまりにも無謀だよ。
すると彼は、少しばつが悪そうに言った。
「俺もお前と同類。気がついたら、ここにいた」
そう言えば、最後に名前を呼ばれた気がする。あれは間違いなく、晶くんの声だった。するとあのまま、彼も一緒に落下してしまったということ?
「まあ、ふたり揃ってたいした悪運の持ち主だってことだな」
いったい、どれくらいの高さから落ちたのか。それもよくわかってない。確認したくても靄がすごくてよく見えないし。ただ、二メートルや三メートルでないことは確かだ。
「……あっ、ええと! 榊田さんっ、……それから、ショウは!?」
晶くんは少し顔を歪めると、無言のままで後ろを振り向いた。私たちがいる場所から、数十メートル。そこには見覚えのある黒い車が横倒しになってた。あちこちがへこんでいてひどいことになっている。
「――中、見ない方がいい。シートベルト、着けてなかったみたいだ。あの状態で、爆発しなかったのが奇跡だな」
私を抱きしめる彼の腕が大きく震えていた。自分の身体から、血の気が引いていくのがわかる。
こんな風に説明してくれるところをみると、晶くんはすでに車の中を確認したということか。それを思うと、急に心臓が痛くなる。
でもどうして、だからどうして。考えても考えても、正しい答えがひとつも浮かばない。
「……な、なんか、その。これって、どういう……」
最初から最後まで、なにひとつわかってない。晶くんが側にいる、しっかり抱きしめられると彼の匂いがする。確かなのはそこだけ、他はなにも判別できない。
「一度に考えるな、――混乱するだけだ」
彼は一度腕を解くと、先に立ち上がった。そして私の方へと手を伸ばしてくる。
「立てるか。……このまま雨に打たれているわけにも行かないだろう。どこか、休めるところを探そう」
ゆっくり手を引かれて立ち上がる、とたんに右足に激痛が走った。
「……ったあっ……!」
「挫いたみたいだな、だいぶ腫れてる」
晶くんは私の足下に跪くと、素早く傷の具合を確かめた。
「これじゃ歩けないだろ、俺に負ぶされ」
「えっ、……いいよっ! そんな、悪いから……!」
「ぐずぐずするなっ、言うことを聞け!」
ふたりきりの声と雨音しか聞こえない空間。少ない音色が響き渡って、そして消えていく。
「……はい」
いいのかなあ、笹倉晶におんぶしてもらっちゃったよ。これって、結構重いんじゃないかな。なんかすごい恥ずかしい。
しばらくは雨音と彼の足音だけに耳を澄ませていた。背中にぴったりと身体を吸い付けているから、すごく温かい。そうすると、信じられないくらい安心できる。
人のぬくもりがこれほどまでに貴重だとは思ってなかった。……これって、夢じゃないよね。ここにいるのは本物の晶くんなんだよね。
「この靄が消えれば、助けが来るはずだ。上にはショウがいる、あいつが誰かに連絡を取ってくれるだろう。姫の窮地を救う王子様のポジションか。まったく、こんなときにまでいいとこ取りなんだな」
淡々と話しているけど、その言葉の端々に悔しさがにじみ出ている。こんなときにまで負けず嫌いなんだね、晶くんらしいなと思う。
「お前にも、いろいろと迷惑掛けたな。……怖い目にも遭わせて、悪かった」
いつもの覇気が消えて、すごく力なく話すから痛々しくてならない。どうしてなんだろう、いろんなことを押さえ込んでいるっていうか、すごく我慢してるっていうか。……とても、辛そう。
「ううん、……そんなことない」
私はどうしようもない気分になって、彼にしがみつく腕にぎゅっと力を込めた。
「助けに来てくれて、すごく嬉しい。だって私、今まで全然役に立ってなかったし。それどころか……かえって足手まといにばっかりなっていたもの。本当に、ごめんなさい」
心に、とてつもなく大きなものが引っかかってる。そこに触れたら、大変なことになりそうな気がした。だけど……やっぱ、確認しなくちゃ駄目だよね。
「あの、晶くん」
「なんだ?」
私の問いかけに、彼はぴくりと反応する。
「榊田さん……いったい、どうしちゃったんですか。……もしかして、あの怖い人たちに彼も脅されていたとか?」
こんなこと、はっきり聞いていいものかはわからない。でも曖昧な言葉で濁したところで、結局はそこに辿り着くなら同じことだ。
晶くんの心中はいかほどのものがあるか、それが不安でならない。あんなに大好きだったのに、すごく信頼し合っているふたりに見えたのに、いったいどこがどうなってしまったの? おかしいよ、絶対に、すごくおかしい。
「……」
それからしばらく、晶くんはなにも答えなかった。まるで大地が「言葉」というものをすべて失ってしまったかのように、ただ雨の音だけが耳に届いてくる。
谷底はとても狭くて、地面にはびっしりと苔が生えていた。腰の高さほどの低木がそこここに群集している。流れていく風景を見ながら、私たちが落下した地点はすごく幸運な場所だったんだと改めてぞっとした。「……あ……」
しばらく歩くと、茶色の小さな箱のようなものが遠くに見えてきた。近づいてみるとそこは物置か山小屋として使われているらしい建物。中は無人だった。
「つくづく悪運が強いんだな、俺たちは」
扉を開けた晶くんは、喉の奥で低く笑った。
小屋の中はとても狭く、数人の大人が入ればすぐにいっぱいになってしまうほどだった。でも思ったよりは整然としていて、ここを定期的に訪れる人間がいることがわかる。暖を取るような装置は残念ながら見あたらなかったが、そのかわり部屋の片隅に寝袋と毛布が丸まっていた。
ホッとしたのもつかの間、急に大きく震えが来る。長い間雨に打たれた身体が、ようやく自己主張をし始めたようだ。晶くんが腕時計で時間を確かめながら言う。
「濡れた服、脱いで乾かした方が良さそうだな。これから夜に掛けては、さらに冷え込むはずだ」
「えっ……」
最初は冗談なのかと思った。それくらい、あっさりとなんでもないように言われたから。
でも彼がさっさと自分の服を脱ぎ始めたのを見て、さすがに焦った。
「そっ、その……それは無理っ。ふ、服を脱ぐって……」
やだやだ、冗談っ。そんなのできないっ、恥ずかしすぎるっ!
「下手したら命取りになるぞ、山の気候を甘く見るな」
しかし、対する晶くんは呆れ声で言う。
「もう薄暗くなる頃だ、お互いの姿が見えるわけでもないし」
つづく♪ (120217)