「……あ……」
その瞬間、私は「助かった」と思った。この人なら安全だから、きっと私たちの危機を察して駆けつけてくれたんだと。
そうやって思うのに、一番ふさわしい人物が目の前にいる。本当にどうしてこのタイミングでって思うほどドンピシャで。
これって嬉しい、嬉しすぎる。やっぱ、神様っていたんだね。
「良かった、榊田さん。無事退院されたんですね!」
だから迷いもなく駆け寄っていた。彼は、黒塗りの車の前で松葉杖を手に立っている。スーツ姿をぴしっと決めて、現場復帰って感じ。
「大変だったね、岡野さん。話を聞いて驚いたよ、でももう大丈夫だから」
さすが榊田さん、登場の仕方まで完璧に格好いい。私も嬉しくなって、ついつい声が弾んでしまう。
これからは、彼が犯人捜しを手伝ってくれる。
ううん、彼が率先して動いてくれるはずだ。こんなに元気になったんだもの、もう全部話しちゃっていいんだよね。そうだよね。
「もしかして、晶くんをここまで乗せてきたのも榊田さんですか? でもその足じゃ、運転は――」
そのとき、なんの前置きもなくいきなり彼が私の片腕を掴んだ。
「静かにしろ」
「――千里っ!」
同時に背後から、晶くんの声。
「駄目だっ、千里。早く逃げろ!」
「……えっ?」
なんなの、急に。それって、いったいどういうこと?
驚いて振り向いた私の目が青ざめた晶くんの表情を捉えるのよりも早く、背後からぬっと腕が伸びてあっという間に羽交い締めにされていた。
「大人しくしろ!」
続いて、有無を言わせぬ強い声。これって……榊田さん、だよね?
でもでも、どうして。
「あっ、あのっ……」
「動くな!!」
そう言われてから、束縛が少しだけ弱くなった。
みぞおちのあたりに片腕を回されているだけなのに、私の身体は全然動かない。驚きすぎて、すべての神経が麻痺してしまったみたいだ。
「おっ、おい! 千里は関係ないだろう、離せ! なに、やってんだよ……っ!」
これって……なんなの、なにがどうなってるの。私、頭が混乱しすぎて、わからなくなってる。
晶くん、どうしてそんなに必死になって叫ぶの? だって、私と一緒にいるのは榊田さんだよ? 晶くんが誰よりも、もっとも信頼している人でしょう……!
「千里っ!」
もう一度、名前を呼ばれる。それとほぼ同時に、顎の下になにかキラッと光るものを見た。自然と、目がそっちに向いてしまう。
首筋に当てられていたのは、切れの良さそうなサバイバルナイフ。それもかなりすごそうな奴。
「……っ!」
「これでわかったな、しばらく大人しくしてろ。そうすりゃ、すぐ楽にしてやる」
耳元で囁かれる声があまりに恐ろしくて、返事をすることができない。……ううん、この状況で、どうやって言葉を発すればいいの。無理、絶対に無理。
「榊田さんっ、千里を離せよっ! そいつは関係ないだろ、どうして巻き込むんだ。いい加減にしてくれよ……!」
「……じゃ、こっちの話も聞いてもらおうか」
背後にいる榊田さんは、私が知っているはずのその人とまったくの別人だった。顔も声も全部同じなのに、行動が全然そぐわない。だいたい、なんで私がこんな目に遭ってるの? 絶対におかしいじゃない。
「この車に乗れ、晶。今すぐにだ」
そう告げる間にも、ナイフの先が私の喉元に触れそうになる。ちょっとでも刺さったら、すぐに切れてしまいそう。そして、そうなったら、私はどうなっちゃうの。
「千里を離したら、乗る。だから、まずは彼女を解放しろ」
晶くんもまた、私の知っているいつもの彼とはどこか違っている。だって、榊田さんと一緒にいるときの晶くんはすごく子供っぽくて、心から信頼し合ってるのがよくわかった。そんなふたりの姿が羨ましくて、でもちょっと妬ましかった。
自分が晶くんにとって、そんな存在になれないってことくらい知ってたのに、それでも特別な関係のふたりを見てるのが辛かった。
……なのに。
「そうはいかないな。コイツを解放するのは、お前が車に乗ったあとだ。また、体よく逃げられたらたまらない、お前が信用ならない奴だってことは、すでにわかってるからな」
ざっと風が流れる。あたりの木々の枝が揺れ、足下の落ち葉が一斉に舞い上がった。空では雲がどんどん流れていく。
「違うだろっ、最初に裏切ったのは榊田さんの方じゃないか! どういうことだよ、俺はいつだってあんたの言うとおりにしてきただろ!? なのに、どうして――」
「うるさいっ、そっちの言い分なんて聞く気にもならない。とにかくは車に乗れ、お前はこれからも俺のために働いてくれなきゃ困る」
「榊田さん……!」
まったく話が見えないまま、そしてあまりに恐怖が強すぎて、私はどうにもならなくなってた。
晶くんと榊田さんが言い争いをしている、これってどういうこと? ふたりは信じ合ってたんでしょう、一心同体に行動してきたんでしょう。それなのに、どうして。ホント、訳がわからない……!
「――千里ちゃん、伏せて!」
そのときだった。
急に見当違いの方向から、もうひとりの声が飛んでくる。ショウだ、そう言えば、さっきから姿が見えなかったような……でもどこに?
ヒュン、となにかが空を切る音。咄嗟に身の危険を感じて、私は身体をくの字に曲げた。そんなことで拘束が解けるとも思わなかったけど、普通に腕を剥がすとか絶対に無理だったし。
「……っ……!」
コーンという音がすぐ側で聞こえた、と同時に私におなかに回っていた腕が一瞬緩む。と、同時に晶くんの声。
「――はっ、走れ! 千里っ、逃げろ!」
一度は膝を地面についてはいつくばったものの、すぐに起き上がった。
なんか知らないけど、いきなりヤバイ状況になってるみたい。物騒なものまで持ち出されているし、あんなのでブスリとやられたらあっという間にあの世行きだ。こんな山奥、人もなかなか入り込まないような場所で死体になったら、きっと誰にも気づかれない。
なんとなく予感がする、私はどうやったって助からないんだ。
さっき、榊田さんは晶くんに言った。車に乗れば私を解放するって。でも違う、もしも晶くんがその言葉に従って車に乗り込んだとき、あのナイフは私ののど元を切り裂く。
よく言うじゃない、顔を見られたら殺すしかないとか。それだよそれ、理由はまったくわからないけど、そういうことなんだよ。
「……くそっ!」
転がるように立ち上がりながら、一瞬だけ後ろを振り向く。
するとそこにはナイフを掴んだ手をもう一方の手で押さえながらうずくまる榊田さんの姿があった。
「千里っ、走れ! とにかく道沿いに下りろ、すぐにだ……!」
晶くんの必死の声が背後から聞こえてくる。そんなこと言われなくたってわかってる、わかっているけど足が上手く動かない。とにかく気持ちが混乱して、まずは状況を把握しなくちゃって思うのにそんな暇もなくて。
「……あ、晶くん! これって、いったいどういう――」
バンとドアが閉まる音に振り向くと、榊田さんの姿が消えていた。そして車の中に人影がふたつ、ひとりはもちろん榊田さん。そして、もう一方の横顔にも私は覚えがあった。
そう、あれって……私が昨日連れ込まれた車でも運転手をしていた男。
なんでその人と榊田さんが一緒の車に? それって、それって。
考える間もなく、そのままものすごいスピードでバックしてきて――
「千里、危ない……!」
その車が私を轢き殺そうとしているのだということに、少しして気づいた。でもそんな悠長なことをしているうちに、あっという間に目の前まで迫られている。こんなとこで、絶対に嫌。でもでも、なんで榊田さんが? そもそも、そんな選択肢、絶対に考えられなかった。
ふわっと、身体が宙に浮く。
でも次の瞬間、そのまま足下がなくなる。
「えっ、……きゃああああああっ……!」
急な山道の向こう側は、切り通しの崖。そして、深い谷底へと続いていた。
「千里――」
晶くんの声が、聞こえた気がする。すごく遠くで、それともとても近くで? それすらもわからない、一瞬なのか永遠なのかもわからない間合い。
もともと走りモノはすっごい苦手なんだよ、私。だから、バンジージャンプとか一生やらないと思ってたし、一回転するジェットコースターだって、できることならご遠慮したい。
だから、だから――
目の前がふっと白くなる。そしてその後はなにも考えられなくなった。
つづく♪ (120221)