TopNovel>その微笑みに囚われて・37

 

「全治二ヶ月から三ヶ月といったところでしょうか。まあ、あれだけの高さから落下して、この程度で済んだのは奇跡です」
  思ったよりも、怪我の程度はひどかったようだ。翌日、運び込まれた病院で私は医師の診断を聞いていた。
「とにかくは余計なことは考えずに、しばらくは治療に専念してください。……ここは安全ですから」
  全身打撲に加え、両手足の何カ所も骨折したり骨にヒビが入ったりしている。一番重傷な右ふくらはぎには内出血も見られ、特別の措置が必要だという。
「まったく、このような悪天候に軽装で山に入るなど、自殺行為にも等しいですよ。山を甘く見てはいけません、運良く現地の者が見回りに来たから良かったようなものを……」
  医師の眼鏡フレームが、午後の日差しを集めてキラリと光った。
「……え、ええと……」
  なんとも言えない違和感を覚えて、私は思わず口を開いていた。でもすっきりと白衣を着こなしたその医師は、コホンとひとつ咳払いをしてから続ける。
「あなたは、ずっとひとりだったのですよ。昨夜は季節外れの冷え込みとなりましたが、大事に至らずに本当に良かったです。もちろん今回のことに、事件性はまったく見あたりません。――お分かりですね」
  それまで側にいて介添えをしてくれていた看護師さんも、気がついたらいなくなっていた。有無を言わせぬその言い方に、私はハッとして口をつぐむ。
  ――ここは安全ですから。
  最初に告げられたその言葉の意味は、すごく深いところにあった。落下現場からほど近い場所にある山間の総合病院は、下界から隔離されたような不思議な場所。そして悪夢のような一昼夜は、誰の記憶からもすっかり忘れ去られているようであった。
「そ、そのっ、私は――」
  でもそんな、絶対にあり得ないから。だってあれはぜんぶ現実だもの、本当にあったことだから。
「岡野さん」
  医師はまたしても私の言葉を遮る。その声は、もうひと言も発するなとでも言わんばかりに強いものだった。
「面会の方がいらしています、お疲れでしょうから短時間だけ許可しましょう。決して取り乱したりしないよう、冷静に願いますよ。あなたは養生が必要な身体なのですから」
  彼がすっと立ち上がり、個室のドアを開ける。するとその向こうから、ぬっと見知った顔が現れた。
「――やっ、チィちゃん。元気そうだね〜!」
「し、社長!」
  手櫛で撫でつけたみたいに見える髪、よれよれのスーツに無精ひげ。いつも通りの姿の彼は、当然ながら手ぶらで部屋に入ってきた。そして、医師の出て行ったドアを素早く閉めると、意味深な笑顔で私を見る。
「その顔、お目当ての相手じゃなくてがっかりしているって感じだねぇ?」
  私はなにも言わずに、社長から目をそらした。
「……ふうん、図星ってところか」
  さらに言葉を重ねられても私が辛抱強く口をつぐんでいると、社長は部屋の隅に置かれたパイプ椅子にどかっと腰を下ろした。
  そしてしばらく、居心地の悪い静寂が訪れる。
  窓の外には、黄緑の風景が溢れていた。ずいぶんと山奥であることが、すぐにわかる。ここでは、車のエンジン音もクラクションの音も聞こえない。
  ――ええと……どこからなにを話したらいいんだろう。
  医師からは、面会時間は短めにと釘を刺されていた。このままでいたら、ひとことも会話を交わさないままでお開きになってしまうかも知れない。
  やっぱり、まずは謝るべきだろうか。こちらに非があるか否かは関係なく、晶くんを不用意に危険にさらしてしまったことは私自身の失態だ。その上、社長への経過報告も怠っている。
「そ、その――」
「現地の人に発見されたんだって? チィちゃんは本当に運がいいねえ〜。だけど、あんまり若いうちにラッキーの貯金を使いすぎると、あとが辛くなるから気をつけた方がいいかもね」
  私はハッとして、社長の方へと向き直った。別にそうしろと指示されたわけではなかったが、まるで見えない糸に引っ張られるように導かれてしまったのだ。
「晶、今朝からドラマの撮影に戻ってるから」
  私が目を見開くと、社長は相変わらずのニヤニヤ笑いで続けた。
「アイツはタフな奴だから、ちょっとやそっとのことじゃくたばらない。だから、俺ができるのはそのほかのフォローだけだな。面倒なことはすべて闇に葬っておこうとおもってさ、それが明るい未来の為だよ」
「……それって……」
「チィちゃんが発見された小屋とは目と鼻の先で、転落した車両が発見された。でも君はそのことにはまったく関わってないから。なーんにも話す必要はないんだよ、わかってるよね? その代わり、ここの入院費や治療費はすべてこっちで負担することにするから」
  いつも通りのふざけた話し方なのに、私はなにも言い返すことができなかった。
  そんなことがまかり通るはずもないでしょうときっぱり言い切りたかったのに、それも無理。それに……社長だったら、不可能を可能に塗り替えることも簡単にしてしまうかも知れない。
「今回のことは、チィちゃんにはかなり荷が重かったと思うよ〜悪かったねえ、他に適任者が見つからなくてさ。でも、お陰で晶も過去と決別する気持ちになれたようだ。これも、結果オーライってところかな? 向こうの黒い連中たちも、自分たちのことが明るみに出るような失態は避けたいはずだ。中途半端な悪は、結局どっちつかずで干される運命にあるってことだよ。ちょっと上手く行き始めたからって、それを自分の手柄と勘違いしたらいけない。人間、いつだって謙虚に生きるのが一番だよ」
  社長はそこまで言うと、椅子から立ち上がった。そして私のベッドの方へと歩いてくる。
「チィちゃんはここでゆっくり休んで、それから仕切り直しと行こうか。しばらくは不自由な想いをさせると思うけど、我慢してくれよ。君のデスクは、ちゃあんとそのままにして帰りを待ってるから」
  肩にポンと置かれた手は、大きくてとても温かかった。そして、私が今後に取るべき行動をはっきりと知らしめてくれる。
「……ありがとうございます。お心遣い、感謝します」
  伝えたいことは山ほどあるような気がしていた。でもどんなに言葉を重ねたところで、私の中にあるこの気持ちは絶対にわかってもらえないと思う。
  とても会いたい人がいる、でも立場的にも物理的にもそれは叶わないことだ。
  だから、私は唇をぎゅっと噛みしめる。薄い皮膚が切れて血がにじんでも、きつくきつく噛みしめ続けた。

 社長の「暗躍」には舌を巻くしかなかった。
  元マネージャーである榊田さんの「裏」との関わりのことも、そのことに晶くんが巻き込まれかけたことも、どこにもリークされることはなく、完璧なまでに「なかったこと」にされていた。
  ドラマの撮影も順調に進み、予定通りにクランクアップ。そのニュースも私は朝のワイドショー番組で知った。
「……連絡くらい、くれたっていいのに」
  たまにそんな本音が口をついて出てきてしまったりする。でもそれは、誰もいないひとりきりのときにだけ許されること。誰かに本当の気持ちを気づかれることは絶対にあってはならないことだと思う。
  ――社長は、いったいどこまでのことを知っているんだろう……
  私と晶くんがあの小屋で一夜を過ごしたことはもちろんわかっていると思う。密室での出来事を、あれこれ詮索したらキリはない。だけど、あえてその話題には触れてこなかった。
  俳優と担当マネージャー。そこに特別の関係が存在してしまったら、やりにくくなるのは当然。事務所としても、それだけは絶対に避けたい事態のはずだ。
「もう……これきりになるんだろうな」
  ちょっぴり残念な気もするけど、ここは潔く諦めるしかない。もともと、住む世界が違う人だったんだから、元の通りに「ひとりのファン」に戻ってしまえばいいんだ。六年間もその立場を守ってきたんだから、頭で考えるほど難しい話じゃないと思う。
  三週間ほどで固定器具が外れ、そのあとはリハビリに入った。最初は素足を床に着けるのも怖かったけど、辛抱強く繰り返すうちに、だんだん感覚が戻ってくる。無理は禁物だと何度も釘を刺されながら、私は言われたことを地道にこなしていった。
  山の緑はその間にもどんどん濃くなっていく。そろそろ退院の日取りが決まる頃には、あたりは夏山の風景に変わっていた。

 そんなある日、久しぶりに面会者が訪れる。抱えきれないほどのカラフルな花束の向こう。あまりにも意外すぎるその相手に、私はしばし言葉を失ってしまった。

   

つづく♪ (120310)

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