TopNovel>その微笑みに囚われて・41

 

 そのときの私には、まだ若干の迷いがあった。
  もちろん、晶くんのことは大好きだし、初めての相手としてこれ以上の人はいないと思う。でも……一度、彼とそう言う関係になってしまったら、私の中に割り切れない想いが生じてしまいそうな不安があった。
  私の口内に入り込んだ彼の艶めかしい舌が、理性を切断しようとしている。夢の時間の入り口で立ち往生する私を、強引に引きずり込もうとするように。
「で、でもっ、でも、私は……」
「千里を他の奴に渡したくない。自分でもどうしてこんな気持ちになるのかわからない、距離を置いて頭を冷やせば考え直せるかとも思ったけど、その逆だった。もう駄目だ、千里の答えも待てない」
  笹倉晶に耳元でそんな風に囁かれて、落ちない女はいるのだろうか? 私は自分の足に力が入らなくなっているのを感じていた。
「……いいんだな?」
  崩れ落ちそうになる私の身体を抱き留めて、彼が熱い息を吐く。黙ったまま、頷くのがやっとだった。
  ――どうしたらいいんだろう、私。このまま流されてしまっていいものなの……?
  気がついたときには、ベッドに仰向けに倒れ込んでいた。不安に震える私の頬を大きな手のひらが辿っていく。このまま、本当に……私は? たとえようのない恐怖で、気持ちが裏返りそうになる。
「千里」
  耳元で吐息が踊る。
  私の名を呼ぶこの声を、どんなに聞きたいと願っただろう。四角く区切られた病院の一室、もしかしたらもう二度と会えないかも知れないなんて、不安も湧いてきた。
  ずっと寂しかったんだと思う、でもそんな感情を自分が抱いていることを実感するのも嫌だった。だから忘れたふりをした、最初からなかったことにしようとした。私の周囲の人たちが、すべての記憶を消し去ろうとするのなら、それに従うしかないかなとか。
  ……ううん、本当は。
  本当に怖かったのは、晶くんが私のことを綺麗さっぱり忘れてしまうことだ。きっとそうなってしまうだろうという予感もあった。だからその前に――
「……やりにくいな」
「え?」
「前と違って全然抵抗しないから。素直すぎるお前は扱いにくい」
  そう言いながら、頬にキス。わざと頼りなく、くすぐったい感触で。
「い、……嫌だって言ったら、やめてくれるんですか?」
  私の言葉に、晶くんは少しだけ驚いた顔になった。でも次の瞬間、ふっと笑う。
「駄目だな、それはたぶん無理」
  ひとつひとつの台詞が、ガラスの欠片みたいに鋭く胸に刺さる。役者として「作られた」彼よりも、少し乱暴で男っぽい声。それなのに、壊れものに触れるようなぎこちない指先。心の震えが、そのまま伝わってくる。やっぱり、ずっと、感情を抑え込んでいたんだなって。すごく我慢して必死に持ちこたえていたんだろう、周囲に少しも気づかれないように振る舞って。
「お前に出会う前の俺は、いつでも外面ばかりだった気がする。自分自身もそれに気づいていなかったのが、今となってはとても不思議だ。なんというか……千里って、ギョーカイ人っぽくないから調子狂うんだよな」
  そしてまた、晶くんは自嘲気味に笑う。
「長い時間を掛けて築き上げたものを、あんな短期間でお前に突き崩された。その落とし前は着けてもらわないと困る」
  瞳が揺れていた、心細そうな本当の彼が見え隠れする。指で触れたら消えてしまいそうに心許ない。
  頼り切っていた大樹が倒れて途方に暮れているその姿に、私の気持ちがシンクロする。
「……あ」
  そのとき、私の鼓膜が微かな音を捉えた。窓を叩く雨粒、なんの前触れもなく記憶の中と同じ夜がやってきた。
「あの夜と同じですね。……こうやってふたりきりで、でも全然、怖くなかった」
  晶くんはそっと身を起こすと、ベッドを離れる。そして、部屋の照明をすべて消した。
「そうだな、ちょうどこんな感じだった」
  柔らかく抱き寄せられて、閉じこめていた心が溢れ出す。会いたかった、触れたかった、心も身体も、そのどちらも一番近くに行きたかった。
  いいよね、もう。難しいことはなにも考えなくて。
「……あっ……」
  首筋に、ちりっと痛みが走る。悲鳴のような呻きが、喉の奥から転がり出ていた。
「千里にたくさん痕をつけてやる、離れている間も消えないくらい」
「そ、そんなっ、……無理ですっ!」
  たとえるなら、針で刺したような鋭い痛み。それが、身体じゅうに広がっていく。這い回る手のひらもなにかを性急に求めているように思えた。
「無理じゃない、応えろ。お前ならできるはずだ」
  いつの間にか互いの服が大きくはだけ、素肌の感触が生々しく伝わってくる。
  ――このまま、囚われてしまいたいって思った。
  暗闇の中で、激しい息づかいだけが響き合う。すごく怖くて、このまま逃げ出してしまいたいほどなのに。だけど、「もっと」と求めてしまうもうひとりの私がいる。
「……あっ、そこは嫌ぁ……っ!」
  胸の先にたとえようのない痛みを覚え、私は背中を弓なりにのけぞらせた。周囲から柔らかく揉み上げていたはずの手のひらが、だんだん核心に近づき、ついにはその頂をつまみ上げる。そのときの衝撃は、想像していたよりもずっと強く激しいものだった。
「嫌じゃないだろう、こんなに感じているくせに」
  さらに、ぞくっと生ぬるい感覚。舌を絡め取られるよりももっと強く熱く、彼が私の本能に火をつける。
「……こっちだって、そろそろ我慢できないんじゃないか?」
  するりと下腹部に忍び込んできた指が、もうひとつの刺激をいとも簡単にあぶり出す。
「うっ、嘘! 駄目っ、ちょっと待って……!」
  こんなところで恥ずかしがっていたって仕方ない、それはわかっているつもり。でも、やっぱり怖い。自分がどんどん変わってしまうのが我慢できなかった。
「もう待てないって、言ってるだろう?」
  慌てて払いのけようとした私の手を、彼は強く振り払う。
「千里は俺のものになるんだ、俺だけのものになるんだ、それをはっきり証明してやる」
「……あっ、あああっ……」
  入り口に違和感を覚えたのはほんの一瞬。あっという間に探り当てられた場所を執拗にさすられて、今まで感じたことがない不思議な感情に振り回されていく。
  人を恋しく思うときの、胸の奥の痛み。それが何倍にも膨らんで堪えきれなくなって、爆発する寸前みたいな。
「結構、感じやすいな? こうしたら、もっといいだろ」
  晶くんの親指がなにかに触れる。内蔵がひっくり返るような妙な感覚に、私の腰が泳いだ。
「……あ、やっ、……だっ、そこは駄目っ……!」
  つま先から頭のてっぺんまで、電撃のような痺れが突き抜ける。頭が真っ白になって、そのあと暗転した。

「……千里?」
  名前を呼ばれて、ふっと我に返る。心臓が血液を送り出している音が、妙に大きく聞こえていた。大きく息を吐き出すと、少しだけ楽になる。
「俺、お前に惚れまくってるみたいだな。そんな風にされると、もう制御がきかない。もっともっと、感じさせて、限界を超えさせてやりたいと思う」
「……え?」
「最後まで、ついて来いよ」
  訊ね返そうとした私の口を、彼は素早く塞ぐ。熱く溢れ出す感情をお互いに絡ませて、この先の進路をひとつにした。求めることと求められることが、同一線上に並ぶ。どちらの感情もお互いの中に同じくらいの重さを持って存在している。だから、もう迷わない。
「……あ……」
  しばらくは私の入り口を探っていたものが、ついにぬるりと内部に入り込んでくる。指先よりも堅く太いものに一気に押し広げられていくその部分が、激しい痛みを私にもたらした。だけど侵入は止まらない、背中に回された手のひらが汗ばむほどにきつく、ついにはすべてが解き放たれた。
「すげーきついな。だけど……最高の気分だ」
  ――どうして、こんなときにそんなことを言うの。
  言い返したいのに、言い返せない。気持ちがいっぱいいっぱいで、もうどうしていいかわからない。
  でも、その迷いと同じくらい、すごく満たされて幸せになってる。
  私は思いのすべてを込めて、彼にぎゅっとしがみついた。
  ――ずっと、そばにいて。
  その言葉は、心の中だけで止めたつもり。なのに、次の瞬間に、晶くんは言った。
「もう、二度と離さないからな」
  そんな約束、できるはずもないのに、相変わらずのすごい自信家。
「動くぞ、……腰が抜けるくらい愛してやる」
  唇、指先、肌と肌。
  繋がりあったすべての部分から、たくさんの想いが溢れてくる。
「……あっ、あっ、……晶くんっ、晶くん……!」
  無我夢中で、何度も何度も名前を呼んだ。永遠に封印するしかないと思っていた、懐かしいその名前を。
「……くっ、千里……いいっ……!」
  白いシーツの上、私たちはどこまでも自由だった。それぞれの想いをすべて伝えあって、求め合って。その白い砂丘が永遠に続くように願いながら彷徨い続ける。終わりがないことを願う旅路を。

 夜が明けるまで、私たちはずっとひとつだった。でも朝日が部屋に差し込む頃、名残惜しそうに温もりが離れていく。
「……ここで待ってろよ、約束だからな」
  夢とも現実ともつかない笑顔を見送りながら、私も淡く微笑み返していた。

   

つづく♪ (120316)

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