TopNovel>その微笑みに囚われて・40

 

 どうしてこの人は、真顔で冗談をいうのかな。
  晶くんに散々からかわれて免疫がついたと思ったのに、久しぶりのシチュエーションだからか気持ちのコントロールが上手くできない。
「おっ、お疲れ様でした。お先、失礼します!」
  慌てて車を降りてドアを閉めると、ショウは窓の向こうから笑顔で手を振ってくれた。
  車が走り去ると、私はひとりぽつんと取り残される。
  ――本当に、すべてが元どおりなのか……。
「晶くん……まだ飛行機の中なのかな」
  ふと、口をついて出てきた言葉。暗闇に溶けていく響きには悔しさとも寂しさとも表現できない感情が滲んでいた。
  でも、こんなところにいつまでも突っ立っていたって仕方ない。ともかくは部屋に戻ろうと思い直した。
  ひさしのない外階段を上がりながら、ぼんやりと考える。
  晶くんとは、あの夜以来会っていない。彼は私の入院している病院に一度も訪れなかった。仕事が忙しかったことももちろんだけど、理由はそれだけじゃないと思う。
  私とは会ってはいけない――そのことを晶くん本人か、もしくは他の第三者が決めたと言うことだ。マスコミ対策もあったと思う、今が一番大切な時期である彼に、余計なスキャンダルがあってはならない。
  それはわかってるけど……やっぱり、これって冷たすぎるよ。
「結局……そんなところだったんだよね」
  あの夜、私は晶くんと心が繋がった気がしていた。彼の悲しみとか辛さとか、やり場のない感情のすべてが静かに流れ込んできたみたいに思えて、ようやくひとりの人間としての「笹倉晶」を受け止めることができたかなと感じていた。
  でもそれは、私の一方的な思いこみでしかなかったんだな……。
  予感はあった、病院を出ても晶くんのマネージャーに戻ることはないだろうと。だけどな、同じことならきちんとお別れが言いたかったよ。彼の方には感慨深いなにもなかったとは思うけど、少なくとも私には、あの一週間とちょっとの日々がすごく思い出深いものになったから。
  だけどたぶん、実際に本人を目の前にしたら、なにも言えなくなっちゃうだろうな……。
  社長が、そしてショウが。私のことをすごく気遣ってくれてるのがわかった。そのことに気づいたからこそ、すごく辛くなった。もう、あんな日々は二度と戻ってこない。そのことを、私はどうやって受け止めて行けばいいのだろう。
  物思いに耽っていても、私の足は勝手に自分の部屋の前で止まる。そして、慣れた手つきで鍵を開けドアを開いたところで、なんともいえない違和感を覚えていた。
「え……これって」
  気のせいだろうか、長いこと無人だったはずの部屋なのに、そんな雰囲気がまったくない。今朝、出て行ったばかりのような、生活感がある。そりゃ、カオル先輩がホテルの荷物を持ってきたついでにいろいろ片付けていったって話だから、人の出入りがあったことはわかってる。
  でも……そろそろ夏本番のはずなのに、どうしてこんなに部屋の中がひんやりとしているの? これって、……まるで直前までエアコンが稼働していたみたいだけど。まさか、そんな馬鹿な。
  私は玄関を入ってすぐのキッチンの照明をつけた。目の前がぱあっと明るくなって、チリひとつ落ちてないフローリングの床が現れる。でも、私の視線はそこではなく、奥の寝室兼リビングで止まった。
「……」
  驚きすぎて、声が出ない。私は靴も脱がないまま、呆然と玄関に立ちつくしていた。
「おかえり」
  黒い人影が立ち上がる。そして、スポットライト――ではなくて、キッチンの照明の下にゆっくりと出てきた。
「ど、どうして」
  ちょっと待って、そんなはずないでしょう。だって、この人はもう――
「千里の快気祝いだろ、だからこうして待ってた」
  そう言って、彼は奥の部屋の灯りをつける。冬はこたつとして使っているテーブルの上、料理の乗った何枚かのお皿が並んでいた。
「で、でもっ……」
  晶くんはもう日本にいないって、社長ははっきりそう言った。
「なんだよ、幽霊でも見るような顔して。感動の再会なのに、失礼すぎないか?」
  この世のものとは思えない綺麗な笑顔。あまりの完璧さに作り物っぽくすら見えるそれが、どんどん近づいてくる。
  そっと差し出される手。私が玄関に立っているため、ふたりの身長差がさらに開く。彼の指先はそのまま私の頬に届いた。少し汗ばんだ手のひら。私はそこに、自分の手を重ねる。
  指先が震えていた。だから、生きているんだってわかる。違う場所にいても、お互いが命を繋げていたんだって感じ取れた。
  「……どうしたんだよ」
  なにも話さない私にしびれを切らしたのか、晶くんが拗ねたように訊ねてくる。それでも私の唇は大きく震えすぎて、なかなか言葉を発することができなかった。
「……わ、わかんない」
「え?」
「言いたいこと、たくさんあったはずなのに……全部消えて、頭が真っ白になっちゃって」
  もう会えない、そう思ったから諦めようと決めた。
  私たちの関係は、一時的なもの。そこに特別な決まりごとなどなにもなかったのだから。でも……やっぱり、すごく会いたかった。
「そうか」
  晶くんは喉の奥で低く笑う。それは役者である「笹倉晶」ではなく、私に見せていた彼の素の姿だった。「もっと感動的な再会シーンになると思ったんだけどな。お前は肝心なところでいつも間抜けだな」
「そ、そんな言い方ってないじゃないですか……!」
  まったく、もう。よくよく考えてみれば、これってどういうこと? 勝手に人の部屋に上がり込んで、しかも部屋の主であるべき私にこんな暴言まで吐いて。
  だけど……これが晶くんなんだよな。
  私は彼の手をすり抜けると、ゆっくりと靴を脱いだ。そしてそのまま洗面所へ。いつもの習慣で、まずは手を洗う。当たり前の動作を続けながら、頭の中で考えた。
  ――どこまで、記憶をリセットすればいいんだろう。
  崖の下での雨の夜は、特別だったと思う。あそこにふたりの気持ちを戻すのは、ちょっと違う。だったらいったいどこへ……
「千里」
  いつの間にか、すぐ後ろに晶くんが立っていた。狭いユニットバスの片隅だから、私はそのまま身動きが取れなくなる。
「な、なに……」
  鏡越しに、ふたりの視線が重なる。次の瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられていた。
「いろいろ、すまなかった。まさかここまで大事になるとは、俺の計算違いだった」
  絞り出すようなすすり泣くような、掠れた声。それでも私を腕の中に収めたことで、彼はいくらか安堵したようにも思える。
「お前が消える夢をあれから何度も見た。無事だって信じたかったけど、心のどこかで不安があった。俺はもう……誰も失いたくない。すごく……怖かった」
  だったら、直接会いに来てくれれば良かったじゃない。――なんて、言っちゃ駄目だよね。晶くんだって、できることならそうしたいと思ってくれていたはずだもん。
「大丈夫です、私は見た目以上に頑丈みたいですから。リハビリだって、順調に進みすぎてすごく驚かれたんですよ」
  安心させてあげなくちゃと思った。確かな支えを失って、今一番辛いのはこの人のはずだから。
「そうだな、前よりも肉が付いたみたいだし」
「……えっ……」
  ちょっと待て。それって、かなりのセクハラ発言ではないでしょうか!?
「あっ、あのですねーっ……」
  束縛を振りほどいて、どうにか向き直っていた。ただですら窮屈なスペースに大柄な男とふたりでいるんだから、それだけの動作がすごく大変。でも、こういうのは鏡越しじゃなくて、きちんと相手の目を直に見て抗議しなくちゃと思ったから。
「……っ……」
  でも、口を開くよりも早く、彼の指が私の唇に触れる。そしてそのまま、半ば強引に唇が重なった。
  いくつもの記憶が私の心を駆け抜けていく。だけど、一番深い場所で、ふたりの心が完全に触れ合った気がした。
「社長には会わずに行けと釘を刺された。千里の顔を見たら、決心が鈍るからって。でも……そんなの絶対に無理だと思ったんだ。だから、あいつに頼んだ」
「あいつ?」
「……ショウ、だよ」
  晶くんは吐き捨てるようにそう言うと、私をきつく抱きしめた。
「あんな奴に頭を下げるのは、とんでもない屈辱だったんだからな。でも、千里を手に入れるためには手段を選んではいられないからな」
  そこで彼は一度腕を緩めると、私の顔をじっとのぞき込む。
「そろそろ、覚悟はできたか?」
  私が返事を口にする前に、彼は再び唇を重ねてきた。

   

つづく♪ (120315)

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