「……ひっ、ひゃあっ!」
おもむろに胸を鷲づかみにされ、さすがに慌てた声が出た。
「なんだ、見た目よりもボリュームに欠けるな。ずいぶんパットが厚く入ってんだろ。なに、盛ってるんだ」
ロマンティックな響きなんて、どこにもなかった。あえて言うなら「触診」、身体を冷静に観察されているような感じ。
もう片方の手が背中に回り込み、スカートからブラウスを引き抜いたあとに背筋を上に上がってくる。やがて、ブラのホックに指が掛かった。たいした抵抗もないまま、ぷつっと外れる。
そうされたことでおのずとブラのカップは浮き上がり、彼の指先が中に入り込む手助けとなった。素肌に感じる刺激が、布地の上からとは比べものにならない。
背筋がぞっとして、全身に鳥肌が立った。
「だっ、駄目っ! やめてっ、これ以上は絶対に駄目……っ!」
ようやく、大きな声で叫ぶことができた。その勢いで、彼の束縛を振り払うことに成功する。
「なにしてるんですかっ、いい加減にしてください! こんなっ、こんなこと駄目です。もしもどうしても我慢できないって言うなら、そのときは専門の方を呼びますっ。だからっ、これ以上はやめてください……!」
大きく肩で息をして、はだけた襟元をたぐり寄せる。そして、改めて彼の方へと顔を向けた。
しかしそこにあったのは、相変わらず冷たく心のない眼差しだった。
「――専門の方って? それって、もしかしてデリヘルとか?」
う、うわ。
晶くんの口から、そんな言葉聞きたくなかった。だから曖昧に濁したのに、そのものズバリを指摘されちゃたまらない。
「あのさ、俺はかなり顔が割れてる人間なの。素性の確かじゃない相手とお手合わせなんて、そんな危ない橋が渡れますかって。あいつら仕事と言いながらいい加減なトコあるしね、マスコミにリークされてヤバイことになった同業者は数え切れないよ。チィちゃん、そんなことも知らないんだ。そんなで本当に俺のマネージャーやっていける?」
「……そっ、そんなこと言われても」
だから、私ならいいって、一足飛びにそういう話にされちゃ困る。
「とにかく、駄目と言ったら駄目です! こういうことはお互いの合意の上で成り立つものです。無理矢理とか、そういうのは絶対によくないっ、少なくとも私には認められません!」
「お互いの合意? へえ、なかなか可愛いこと言うじゃん。イマドキ、そんなの流行らないって。そんなお花畑みたいな考え方するの、お前くらいだよ」
「ででで……、でもっ!」
相変わらず、容赦のない眼差し。それに対抗しようとしているうちに、身体がガクガク震えてくる。
「誰がなんと言おうと、私は嫌なんです! こんなっ、近くにいるから適当に済ませちゃおう的な考え方には同意できません。少なくとも私は、ずっと一緒にいたいと思える、信頼できる相手じゃなくちゃ駄目です。いくらマネージャーだからって、そこまでのフォローは無理です!」
まったく、今夜の晶くんは謎すぎる。
マネージャーが担当するタレントの性欲処理まで手伝わなくちゃいけないなんて、そんなのあり得ないよ。だって、前任者の榊田さんは男性だよ? まさか、彼にまでそんなことを頼んでいたなんて……いやいや、そこまではまさか。
「へええ、なかなか生意気な口をきくものだな。いつから、そんなに偉くなったんだよ」
彼はそこで、ふっと表情を和らげる。すると一瞬のうちに緊張しきっていた室内の空気がほどけていった。「じゃあ、千里の合意が取れればいいってことだな」
「え、私はそんなつもりじゃ――」
どうしてそんな流れになるの、こっちの意見を曲解するにも程がある。
「いきなりフルコースじゃ胃もたれするだろうからな。ま、ここは長期戦で落とせってこと? 千里にしちゃ、ずいぶんな強気発言だな」
晶くんは、またひとつ溜め息を落とす。
「ま、そうとわかれば、こっちも手加減なしだ。みてろよ、あっという間にお前の方から『お願いします』と言わせてみせる」
「……え……」
またも意味不明の言葉を落としたあと、彼はくるりときびすを返す。
「着替えのついでにシャワー浴びて来ちゃえば? 俺も、飯食ったら寝る。明日も早いから寝坊するんじゃないぞ」
笹倉晶という人間は、あまりにも難解すぎる。
湯船にたっぷりとお湯を張ってその中に浸かりながら、私はあまりにも生々しい回想シーンに目眩がしそうになっていた。
今日一日の間に本当にいろいろなことがあって、私の頭はとっくに飽和状態。……それで、最後にどかーんとこんなのが来るなんて。
悪ふざけにしては行きすぎていると思う。そりゃ、晶くんのような人気者になれば、相手の方から「是非に」と言われるのが当然。そういう立場に慣れすぎているから、こっちの言い分を理解しろという方が無理かも知れないけど――
「でも、やっぱり。納得できるわけ、ないよ」
いったいなにを企んでいるんだろう、私の方から「お願いします」なんてマジであり得ないのに。
晶くんはいつまでも、夢の世界の住人でいて欲しい。今はいろいろイメージが壊れて辛いけど、無事にマネージャー業を卒業したら、悪しき記憶はすべてリセットしてしまおうと思っている。
「そりゃあ、こんな機会が二度とないっていうのも確かだけどね……」
麗奈ちゃんとのキスシーン、あれを見たときにはすごくやりきれない気分になった。演技でやっているってわかっていても、それでも自分の憧れの人が他の人となんて……そんなの絶対に嬉しくない。
本当に、リアルでそんな場面に遭遇したときのような、そんな気持ちになっていたと思う。
これって、行き過ぎたファン心理とも言えるんじゃないかな。当の本人からしたら「キモ」のひとことで片付けられるような。だから、絶対に知られちゃいけない、内緒にしなくちゃ駄目。このまま素知らぬふりをして通り過ぎて、平穏な日々に戻りたい。
いっそのこと、突き抜けちゃえば楽になれるかなと思う日もある。でも、今それをやるのはあまりに危険。夢から覚めたあとのことを考えたら、思い切ることなんてできっこない。
「あーっ、こんなこと考えている暇、ないのになあ〜っ!」
ざぶっと頭までお湯に浸かり、すべての煩悩を振り切ろうとする。
そうだよ、もっと重要なことが私たちにはあったじゃない。
例の脅迫状。あれがショウのところにまで届いていたなんて、偶然としても出来過ぎている。というか、ショウが晶くんのファンだってことや、ファンクラブにまで入っていることは、ほとんど誰にも知られていないはず。晶くん自身だって、まったく気づいてないみたいだし。
「……私がマネージャーに決まる前に最初の手紙が投函されてるっていうのも、気味が悪いよな」
いったいどこから見張られているのか、または事務所の内部に盗聴器でもしかけられているのか。考えれば考えるほど、事態は複雑で面倒なものになっていく気がする。
私が晶くんのマネージャーを辞めること、そしてショウが晶くんのファンを辞めること。それによって得をする人間はどこにいるのだろう。まずはそこから考えなくてはならないと思う。
でも、そんなの無理だよね。あまりにも接点がなさ過ぎる。
「こっちと向こうの情報を重ね合わせれば、もうちょっと見通しが良くなるのかな……」
そうは言っても、これ以上ショウと接触するのも危険だ。もしかしたら、彼こそが今回の事件のキーとなる人間かも知れないんだし。しかも、晶くんにはなんとなくこのことを切り出しにくいし。
適当にはぐらかしているから、妙な誤解をされたりするんだよね。それはわかってる。
あーっ、もう。どこからなにに手を着けたらいいのだろう……!
だらだらと長風呂をして部屋に戻ると、もう照明は落とされていた。
彼は宣言どおりに眠ってしまったらしい。そうわかって心底ホッとする一方で、ちょっとだけがっかりしている私がいた。
「まあいいや、……私も早いとこ寝よ」
そう思って、昨日のソファーのところまでやってくる。でも、そこに置いてあったはずの毛布が消えていた。
「あれ、どこだろ?」
邪魔だから片付けたのかな。でも、バスルームに行く前には確かにここにあったのに……そう思ってぐるりと部屋を見渡したら、視線の端でなにかが動いた。
「おい、うるさいぞ。なにをぶつぶつ言ってる」
げっ、起きてるし! しかもすごい機嫌悪そうだ。
「す、すみません。……あ、毛布!」
ちょっと待ってよっ、それぞれが一枚ずつ使おうって話になってたじゃない。どうして、二枚一緒に掛けてるの!
「おい」
とにかくは一枚こちらに撤収しようと伸ばした手が、次の瞬間には彼に拘束されていた。
「お前もここで寝ろ」
「えっ、えええっ……! 無理っ、冗談でもやめてください!」
やだっ、どうしてそんな流れになるの。私は必死に首を横に振った。
「あいにくだけど」
そしたら、ひどく醒めた目が面倒くさそうに私を見つめる。
「俺は、その気のない奴を無理矢理襲うほど暇じゃないの。こっちの方が広いし、床に転がり落ちる心配もないってこと」
そのまま晶くんは、ごろんと寝返りを打ってこちらに背中を向けた。二枚の毛布はしっかりと巻き込まれていて、そのうちの一枚だけを引きはがすのは難しそうだ。
「は、はあ……」
いいのかなあ、本当に。
そういう不安もあったのだけど、私はもうそろそろ限界だった。意を決してベッドに潜り込むのとほとんど同時に、意識も途切れていた。
つづく♪ (111209)