……えっ、ちょっと……!?
まさかと思って目を開けた私は、信じられない現実にしばらく白昼夢を見ているかのような気分だった。
でも、これはまさしく現実。だって、ちゃんと体温とか感じてたりするし。
口と口がくっついてますけどっ! これって、これって、つまり――
「なっ、なななっ……なにしているんですかっ……!?」
どーなってんのよっ、コレ。出会い頭の事故? 冗談にしてはあまりに趣味が悪い。
慌てて腕を振りほどこうとしたのに、彼の束縛はさらに強くなる。
「なに、ボサっと突っ立てんの? ちゃんと反応しろよ」
彼の長い指が私の下唇をなぞる。
すぐ目の前には国民的若手俳優の顔。ここまで近づいても、ほとんど毛穴が気にならない。どんなスキンケアをしているのか不思議になってしまうほど、つるつるすべすべの綺麗な肌だ。
……じゃなくて!
「あっ、……あのですね……」
「この眼鏡、邪魔」
どこかで見たことのあるシチュエーション。晶くんの指が片方のフレームに掛かり、そのまますっと外されてしまう。彼はそれをソファーの上に放り投げた。
「俺さ、社長が女のマネージャーつけてくれるって言ったとき、気が利くなと思ったわけ。……ま、期待したほどのことはなかったけどさ。でも、いないよりはマシかな?」
こっちの質問に答える気はさらさらないらしい。
「いないよりは、って……それってどういう――」
……ぎっ、ぎゃあああああっ……!
「うっ、うぐっ」
大声で叫びたかったけど、実際には喉の奥でうめいただけ。口を塞がれているんじゃ、どうにもならない。
待って待って、これ、マジでヤバイって!
しかも全然ロマンチックじゃないしっ、むさぼり食われているみたいな感じだしっ。なんというか、……とにかく生々しすぎて鳥肌立っちゃう。晶くんの舌が私の唇を乱暴に割って入り込み、前歯に届いた。
えええーっ、嘘でしょーっ! ど、どうしてこんな――
「おい」
前後左右の区別も付かなくなるほどにパニクっている私に対し、一度唇を外した晶くんはすっごく嫌そうに言う。
「色気のない奴だな、歯を食いしばるな、とっとと口開けろ」
「なっ、ななな……」
予想外すぎる災難に見舞われ、すぐには次の行動に出られない私。
再び彼の手がこちらに伸びてきたのを見て、ようやくハッと我に返る。
「ちょっとっ! いい加減にしてくださいっ、なにを考えているんですか!」
慌てて後ずさりをしようとしたら、そのまま尻餅をついてしまった。社長から押しつけられたコスプレ衣装のスカート、長めの丈で良かったよ。
「なにを、って?」
すごく、冷たい眼差し。
見上げる角度、ってこともあるのだろう。照明の当たり具合も関係していると思う。だけど、こんな表情、演技でだって見たことないよ。
「これは、ちょっとした口直しってとこかな。あの女、こっちがギリギリのところで止まったのに、自分から顔を寄せて来やがった。まったく、油断も隙もありゃしない」
「は?」
「元はと言えば、お前のせいだ。だから、責任を取ってもらう必要がある」
なにそれ、話が全然見えてこないんですけどっ。
「この期に及んで、しらばっくれるとは見上げた根性だ」
私が納得のいかない表情をしているのが見て取れたのだろう。晶くんは吐き捨てるように言う。
「俺のプロフィールくらい、ちゃんと確認しろ。視力は2.5だ、多少の遠視も入っていて、かなり遠くまで見渡せるぞ。お前がどこでなにをしているかくらい、すべてお見通しだ」
「……」
「人が真剣勝負で仕事しているときに、陰に隠れてなにやってるんだ。だいたい、俺みたいないい男のそばにいたら、他の奴らなんてすべて霞んで見えるだろう」
え、ええと……。
「……あ……」
もしかして、昼間のアレのことなのかな。
迷惑男のショウがいきなり現れて必死に追い払おうとしていたあのときのこと、もしかして見られてたとか!?
こっちの顔色が変わったことに気づいたのか、晶くんは少しだけ表情を緩める。
「ま、今夜のところはこれくらいにしといてやる。これに懲りたら、二度と変な気を起こすんじゃないぞ」
彼はそう言うと、くるりときびすを返した。
「先、シャワー浴びるからな。飯、食ってていいぞ」
その背中が、バスルームのドアの向こうに消えていくまで、私は微動だに動くことができなかった。
納得のいかない行動をされたのは、これが初めてではない。でも、こんなのって、絶対にあり得ない。
確かに改めて考えてみれば、晶くんは午前中のアレのあとから急に機嫌が悪くなったように思う。
まあ、もともと私に対しては愛想なんてまったくない人だから、普段とそれほどに変わらないようにも見えたけど。
だいたい、なんであんなに怒ってるの? そりゃ、今日の私の行動は、マネージャーとしてはイエローカードだったのかも知れない。でも、別に私がいてもいなくても、撮影現場はたいして困らないでしょう? それにこっちは、晶くんの飲み物を買うために席を外したんだし。
思っていることを全部相手にぶつけられたら良かったんだけど、主従関係がはっきりしすぎている今は下手な言い訳も通用しない。というか、人が口を開く前にとんずらされちゃったしな。
「だっ、だけど……なんだって、こんなこと」
今もまだ、半分信じ切れてない。私と晶くんが? でも、どうして。なんのために……。
「くっ、悔しい……」
彼は私にとって、永遠の憧れとも言える存在だ。その本性が度肝を抜かれるほどに意地悪でふてぶてしいと気づいても、それでもなお、一挙一動にいちいちときめいてしまう。こればっかりは長年の習慣だから、すぐに改められることじゃないんだ。
人並みにお付き合いした相手だっている。でも、あまり長続きしなかった。
いつも心のどこかで、自分の隣にいる人と晶くんを比べていたから。そんなことしてなんになるんだ、そろそろ現実を見なくちゃと何度も思ったけど、やっぱり駄目だった。
普通の恋愛にはなりっこないとわかってた、晶くんはみんなのアイドルだもの。自分でも馬鹿だなあと思ったけど、それでも考えを改めることが出来なかった。
――本当はね、撮影現場を見守っているのが嫌だったっていうのもある。
だって、今日の場面は晶くんと麗奈ちゃんとのツーショットばっかり。ふたりの仲の良いシーンの目白押しで、正直、すごく悲しかった。
そうだよ、私だってずっと我慢していたんだよ。嫉妬しすぎておかしくなりそうな自分と戦ってたんだよ。それなのに……その気持ちを踏みにじるように、こんなことするなんて。
私に求められているのは、忠実な犬であること。いつも素直に言うことを聞いて、片時もご主人様のそばを離れない。そんな存在になることだ。
「あーっ、もう嫌だ!」
考えれば考えるほど納得いかなくて、いろんな感情がごちゃ混ぜになってしまう。
ご飯を先に食べていていいと言われたって、食欲なんてどっかに行っちゃったよ。やっぱ、今夜はひとりになりたい。しばらく晶くんのこと忘れて、気持ちを落ち着けたい。
シャワーの音はまだ続いている。自分の部屋に戻るなら今のうちだ。この機会を逃したら、今夜もこの部屋で休むことになってしまう。あんなことがあった直後だもの、それだけは絶対に避けたい。
「――あれ?」
そのとき。
どこからか、メロディー音が聞こえてきた。
これは、私の携帯の音。プライベートな方の。でも、いったいどこから? 旅行カバンの中じゃないし、だったら――
「ああっ、ヤバっ!」
戻りがけに慌てていて、クーラーボックスの脇ポケットに突っ込んじゃったんだっけ。やだっ、あんなところに置きっぱなしにしたら大変っ!
慌てて駆け寄ろうとしたら、ちょっと手元が狂った。
クーラーボックスのすぐとなりに置かれていた晶くんのバッグが、はずみで床に投げ出されてしまう。そして、さらに運の悪いことにファスナーが開いていたらしく、中身が散らばってしまった。
「うわっ、うわっ、……ごめんなさい!」
持ち主はバスルームの中だけど、とりあえずそう言って謝ってからかき集めた。お財布、ハンカチ、いくつかの封筒に、それから――
「……なに、やってんの?」
それからしばらくの間、私は動くことすらできなくなっていた。バスルームのドアが開いて、その中から晶くんが出てきたことにも気づかないくらい呆然としていた。
「あっ、……す、すみません! 私、うっかり晶くんのバッグをひっくり返してしまって……」
平静を装ったつもりだった、なにも気づかれないままやり過ごすつもりだった。
でも、そんなの無理。私はそこまで自分の感情をコントロールすることができない。
「ふうん、そう」
Tシャツにハーフパンツという軽装の彼が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。そして、少し身をかがめると、私の視線を釘付けにしていた「それ」をさりげなく拾い上げた。
「見たんだ、これ」
わざとこちらに見せつけるように、彼は言う。
それは、運転免許証。顔写真は、間違いなく晶くん本人。「佐々木康明」という本名の隣にあったのは、私が知っているよりも三年も過去に遡っている、彼の生年月日だった。
つづく♪ (111124)