和歌と俳句

齋藤茂吉

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ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり

在原の 業平の歌 讀みをへて 萬葉びとを あこがるるなり

野分だちて 朝寒となれる 軽井沢 ものあきなひの 店閉ぢむとす

妻とふたり 碓氷の坂を とほりたり 落葉松の葉の おちそめしころ

軽井沢に 一夜やどりて このあした 矢ケ崎川の 川原を越えぬ

いつしかも 碓氷峠の 頂に 立てりけり 妙義の山々くすし

碓氷ねの 泉のみづは あふれあふれ 清きながらに 東へおちたぎつ

分水嶺 すでに越えつつ はるかなる 六里ケ原と きくもなつかし

いづこにも 湯が噴きいでて 流れゐる 谷間を行けば 身はあたたかし

上野の 草津のみ湯に 夏すぎて 二夜なむりし ことをおもひぬ

吾妻川の 谿におり来て 魚住まぬ 川としいへば われ見守れり

四萬谷に しげりて生ふる 杉の樹は 古葉をこめて 秋ふかむなり

朝の日は いまだも低く 四萬川の 石のべに来て 身をあたためぬ

あさざむき 光となりて 峡のいり 吾が来りつる おどろのうへの露

あはあはと 光のさせる 草むらに 山こほろぎは 夢のごとしも

庭のうへに つゆじもおける あしびきの 山羊歯はいまだ 青をたもちぬ

白雲は 南へなびき 不二がねの いただきに白く 雪降りにけり

あさまだき 烏帽子ケ岳に のぼりたち 五つの湖を ふりさけにけり

しづまりかへりし秋の 山のまに 精進の湖は こもりつつあり

富士がねの なだれなだれし 裾とほく 青き木原と しげりあひたる

鎌倉の 裏街道は あらあらしき 樹海のなかに 道とほりたり

信濃路の 八ケ嶽見ゆ 澄みはてて 秋空にひくく うかべるごとし

梓川 さかまくを見て 山岸の 高きに来れば 音たかまりぬ

梓川の 川上とほく 東北 ひらきそむれば 萌黄空見ゆ

日をつぎて 降りたる雨の 晴れしかば うつくしき柿の もみぢ落ちけり

風呂場より 二人聞き居る 風のおと 梓川より 吹きあぐるらし