和歌と俳句

山口誓子

激浪

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暁の冷え身動ぎもなく熟睡す

こほろぎのこゑす松葉を掻き置けば

舟虫の銀行に匍ふ町に住む

無花果を食うべて老のいのち延ぶ

群雀遠行く渡り鳥のごと

木場の材の多くちちろのこゑ敷けり

わたる海なき県を海に出で

うすうすと七星かかぐ鰯船

なくちちろそよかぜをもてあそぶかに

廚妻けふも薄暮より秋の暮

海ちかく稲田の中に蘆荻生ふ

稲雀汽車に追はれてああ抜かる

落窪を真紅にしたり曼殊沙華

曼珠沙華雲はしづかに徘徊す

海上に星らんらんと曼珠沙華

曼殊沙華田を驚かす音もなく

曼殊沙華駅に煙の直上す

曼殊沙華名もなき野川海に入る

篠原を風吹き分くる曼殊沙華

稲雀更に微塵となり距つ

幻の町に入つても曼殊沙華

汽罐車のすぐそこへ来る曼殊沙華

蘆原の鷺群天に鷺一羽

いとなみの土冷えまさる蟻地獄

墓原の曼殊沙華そこへ行かむとす

海陸の間の鉄路の曼珠沙華

蘆翔つて鷺懸命に羽搏つなり

秋の燈が漁家より海へ乗り出す

漁家の燈と木深き家の秋の燈と

町につく秋燈も漁家の燈にまじる

覆ひし燈縁を照らさずちちろ虫

沖の漁火濡るるに間なし秋の雨

栴檀の実落ち夜陰に落ちつづく

顧る秋の灯いつも坂の上

靄下りて稲田暮れゆく悲しさよ

鯊釣や夜明のごとき暮の景

崖下の秋の燈の上通るなり

秋の暮行けば他国の町めきて

舟虫がわがゐるおなじ畳の上

露けさに白波もなく寄する波

向日葵のけぶらふ機関庫の附近

海辺にて水田ひびかふ銃の音

屋根なほして廃墟の廚ちちろ虫

叱りたる母のしりへに秋の暮

子を叱つて母たのしまず秋の暮

貨物汽車只一燈の秋の暮

秋の燈のそこは駅柵なかりけり

蓑虫のはるけくも地に着くかむとす

屋根なほしも昨日にことならず

ちちろ虫屋根洩りなほす日もなけり

秋風に辞去す帽庇をひき緊めて

いつぞやもなくこほろぎに月の光

三日月のしばらく縁にべつとりと

三日月が隠れし後の情けなさ

妻更に厨の夜を長うする

はじかみを切りし刃物も廚の夜

長かりし夏のつづきの鉦たたき

まざと記すとびをさめたる日の揚羽

揚羽蝶忘れてけふとなりにけり

生きてとびし揚羽の羽の思はるる

河口の帰燕の上になほ帰燕

秋の波出洲の寂しさ極まれり

なきて沖の眺めもなき河口

のこゑ浅き河口を開きけり

叫ぶ入江とどまるところより

曼殊沙華海が聞こえずなりゆけり

曼殊沙華河口にちかき川流る

土堤裏に墓四五そして曼珠沙華

分れつつ流川はやしのこゑ

葭の中川に向かつて叫ぶ

曼殊沙華いづこも川の波いそぐ

曼殊沙華川の激する岩もなく

天の紅うつろひやすし曼珠沙華

わたる河原を天に横切りたり

曼殊沙華暮れていつまで青堤

鵙の暮水車出で来る水はやし

蟷螂を青一色に見失ふ

漁火明うなるや月下にまたたきて

月明き夜に砂浜を焚き焦がす

露更けてオリオンの地を離る

露けさに昴の諸星弁別す

月夜の燈修理の時計さしのぞき

鳥羽行に今宵いづこの駅も月

月光に障子をかたくさしあはす

露けさや三校になほ誤字を見て

のこる蚊を追ふ校正の朱筆以て

立ち出づる一歩の地に月けぶる

燈をともす黒き蟋蟀ゐる部屋の

わが周囲月は光ををさめたり

鵙の雨遠ざかり来て海の雨

無花果の木を晩潮に浸すなり

踏切に鉄路濡れつつ鵙の雨

曼殊沙華記憶のいまも蘂を張る

目を瞑ぢて家族や秋の燈に集ふ

箆づくる妻悲しみの秋燈下

音曲を絶ちて深々秋の夜

秋の夜のラヂオの長き黙つづく

悲しみは深し秋の燈洩らさねば

秋の夜の魂魄更くる中に坐す